第69章 切断の行使(乾の政治的判断)
早朝の光が薄っすらと差し込み始めた首相官邸の総理執務室。
マホガニーのデスクには、各省庁から回付されたバインダーと、数兆円規模のインフラ資産移管に関する「特別例外承認申請書」が平積みにされていた。乾のほかに室内に人影はない。
タブレット端末には、関係省庁と実務部署を結ぶ承認ルートが表示されていた。御子神が組み立てた迂回策が過去の記録の壁に阻まれて座礁したことを受け、官邸主導による強力な「政治的例外規定」を適用し、関係部署に例外的な取り扱いを検討させるための書類が目の前に置かれている。
官邸から政治的な承認を与えれば、関係省庁に再検討を指示し、停滞した案件を動かすことはできる。だが、それは資産の処分権限や支出の根拠を新たに生み出すものではない。目の前の申請書は、法的な処理条件を満たしたことにするためのものではなく、条件が未解決のままでも、関係部署に例外的な取り扱いを検討させるための政治判断だった。
これを認めれば、停滞していた巨大な資金フローはひとまず動き出すはずだった。
しかし、その政治的承認だけで管理主体や処分権限の食い違いが消えるわけではない。政治判断で動かせる範囲と、現場で執行できる範囲はすでにずれていた。
決裁印を押すことは同時に、処理の途中で生じる膨大なエラーや不整合の全責任を、現場の実務部署――そしてその照会業務と「0.3%の数字のずれ」に追われている息子の直人たちへ、容赦なく押し付けることを意味していた。
乾の指先が、万年筆の軸を押さえたまま止まる。
これを政治的に承認しなければ、霞が関を貫く巨大なシステム全体が目詰まりを起こし、内側から政権の求心力そのものが崩壊する。ここで承認を下せば、その正式な承認記録が残ったために現場は異議を唱えにくくなり、直人の部署もまた処理の一部を担い、混乱の渦に巻き込まれる。
乾は深く息を吐き出すと、視線を冷徹に書類の署名欄へと落とした。
「……動かすしかないか」
誰の耳にも届かぬ低い声とともに、濃い黒インクのペン先が申請書を滑った。
『内閣総理大臣 乾 親善』
力強い文字を残し、承認印を捺した書類を決裁箱へと滑り込ませる。
タブレットの承認欄は「政治判断済み」に変わった。しかし、移管元と移管先の権限照合は未完了のままだった。承認履歴が更新されても、処理保留の警告は消えなかった。
最高権力者である乾が政治的な後押しをもって確定させたその断固たる決裁の重みは、またしても日本中の見えない場所で、誰かの日常の歯車を狂わせる新たな歪みを音もなく回し始めた。
乾は窓の外へ目を向けた。夕闇から朝の光へと移ろいゆく霞が関の街並みが、ガラスの向こうに冷たく広がっていた。




