第68章 組織の外構(御子神の別の処理)
午前二時を回った都心、一般の会員すら立ち入ることのない会員制クラブの最奥にある個室会議室。
厚手のベルベットのカーテンが窓からの冷気を完全に遮断し、室内には最高級の木材とレザー、そしてかすかに燻る葉巻の匂いが重く滞留していた。
卓上に置かれた大理石のスタンドライトだけが、そこに広げられた財務省理財局からの報告書や、昭和初期・大正期にまで遡る特殊財産の登記謄本を冷ややかに照らし出している。
正規の資産移管ルートは、管理主体と処分権限の不一致という巨大な壁に阻まれ、すでに完全に手詰まりを起こしていた。御子神自身に国家の官僚組織を直接動かす決裁権はない。しかし、どの部署の誰が決済印を持ち、どの古い例外規定の条文を引っ張り出せばこの麻痺した歯車が一時的にでも噛み合うのか、その裏の回路を彼は完全に掌握していた。
御子神は深々と体を包み込む黒革のソファに浅く腰掛け、卓上の黒い受話器を引き寄せた。
低く、しかし相手に有無を言わせぬ澱みのない声で短く告げる。
「本流は止めたままでいい。別経路の案を、担当課に回せ」
電話の向こうの緊張した気配を確認すると、御子神はガチャリと音を立てて受話器を戻した。
手詰まりとなった本流を迂回するため、彼が水面下で仕掛けた「第三の回避策」の指示は、人脈と制度の糸を介して霞が関や特殊法人の実務者たちへ流れ込んでいく。
しかし数分後、手元の端末に送られてきた進捗ログは、予想外の数値で停止した。
受話器を取った元省庁幹部の声は重かった。
「ダメです、御子神先生。指定された休眠法人の名義を使って資産を迂回させようとしましたが、移管元と移管先の権利関係を確認できず、受け付けられません。旧台帳と現行の資産管理記録がつながっていないため、必要な承認根拠を確認できない状態です」
御子神は視線を落とし、手元の古い謄本の印影に目をやった。
時代を超えて張り巡らされた制度の糸。自分がかつて利用し、巧みに扱ってきたはずの「過去の例外規定」や「あやふやな記録の痕跡」そのものが、今や解読不可能な結び目となって、現代のデジタルシステムの中で強固な防壁と化していた。
どれほど金と人脈を積み上げようと、制度そのものが過去の自己矛盾を抱えたまま固着している以上、外側から動かすことはできない。
御子神は静かに受話器を置くと、すでに灰の崩れかけた葉巻を灰皿の縁で静かに押し潰した。
自分が組み立て、下した「別の処理」という小さな指示の修正が、巨大なシステムを救うどころか、無数の歯車をさらに複雑に、そして不気味に絡み合わせ、より深い停止へと引きずり込んでいく。
静まり返った個室の中では、ただ空調の唸り音だけが冷たく響き渡っていた。




