第67章 佐伯の調査の障壁と、氷室の微かな観測
湿ったインクの匂いと冷え切ったコーヒーの残りが漂う編集局の隅で、佐伯は力なく万年筆を置いた。
前日の朝刊の片隅、誰の目にも留まらないような小さな枠に掲載された自らの記事。その反響を期待したわけではないが、現実の反応はほとんど皆無に等しかった。虚しさを振り切るように、彼は新たな資料を求めて関係者への取材を重ねていていたが、ここ数日、扉を叩く先々で冷徹なまでの「壁」に阻まれ続けている。
午前中からかけ続けた電話のいくつかは、どれも同じような結末を迎えていた。
受話器の向こうの相手は、こちらの名前を名乗った瞬間にトーンを落とし、機械的な定型句を繰り返す。
「その件については、私どもでは……」
「その件については、保存期間を過ぎており、該当する記録は残っていないと聞いています」
直接足を運び、古巣の役所や関連する特殊法人の窓口を訪ねても同じだった。厚手のガラス越しに見える職員たちは一様に目を合わせようとせず、あらかじめ切り取られたように欠落している公文書のデータ、あるいは名義の変更経緯を追える記録が途中で途切れていたり、管理台帳と登記上の名義が一致していなかったりする資産の履歴を突きつけられるだけだった。真実に近づこうとするたび、巨大な組織の防衛本能が何重もの防壁となって彼の前に立ちふさがる。
佐伯は椅子に深く腰掛け、両手で顔を覆った。すでに二時間以上、山積みの資料の束と睨めっこを続けているが、見れば見るほど、自分が巨大なシステムの手のひらの上で踊らされているような、底知れぬ無力感に包まれていく。自分が追っているのは実体のない影なのではないか――そんな疑念が頭をかすめた。
その頃、都心の喧騒から少し離れた静かな一角で、氷室は時間の流れそのものをせき止めるかのように、古い喫茶店のカウンター席に腰掛けていた。
店内の壁にかけられた掛け時計の秒針が、乾いた音を立てて刻々と進んでいく。氷室はその音を聞きながら、公開された市場データと、独自に収集した取引情報を重ね合わせ、数兆円規模の資産処理に伴う資金の動きを静かに追っていた。霞が関の奥深くで乾や御子神が下した決裁の余波と、金融市場に現れる資金の動き。氷室は両者を別々の情報として追い、時刻や金額、取引先の変化を照合していた。その間に、これまで見落としていた接点が浮かび始めていた。
カップの縁に添えていた指を離し、目の前で静かに、しかし確実に動いていく利権の構造を見つめる。
どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
外の通りを往来する人々の足音が遠のきかけたその瞬間、ふと、どこからともなく微かな鐘の音が響いてきた。
氷室はわずかに眉をひそめ、意識の焦点を端末の画面からわずかに外した。顔を上げて音の出どころを探す。しかし、窓の外に広がる暮れかけた街並みを見回しても、教会の尖塔も、鐘をつくような古い建物も視界には入らない。音は確かに鼓膜を揺らしているのに、その方角すら掴めないまま、気配だけがすうっと空気の中に溶けて消えていった。
不気味な空白感を残して消えた音の残響を胸に、氷室は再び冷めかけたコーヒーに視線を落とした。
誰もその存在に気付かないまま、システムはただ淡々と駆動し続ける。佐伯が直面している「壁」も、自分が観測している「市場の裏側のうねり」も、すべてはこの国の巨大な機構が自らを維持するために生み出している歪みの表れに過ぎなかった。氷室は静かに眼鏡を外し、曇りを拭うと、ふとした違和感を胸に秘めつつ、再び冷徹なディスプレイへと目を細めた。




