第66章 裏路地の赤提灯と、煮込まれた出汁の匂い
夕闇が深く落ち始めた頃、氷室が暖簾をくぐったのは、開発が進む大通りから一本外れた古い裏路地にある、年季の入った小料理屋兼居酒屋だった。店内には、昆布と鰹節が何時間も煮詰められた重厚な出汁の香りが立ち込めている。カウンターの端には、湯気を上げる黒光りするおでん鍋。そこに、すでに先客として陣取っていた男がいた。
元・大蔵省(現・財務省)の官僚であり、かつて氷室を厳しく、しかし冷徹に可愛がっていた男――鬼頭である。
「遅かったじゃないか、氷室。……まあ、座れ。ここは相変わらず、外の景気がどう転ぼうと時間の進み方が変わらんね」
鬼頭は徳利から熱燗の猪口へ酒を注ぎながら、濁りのない目で氷室を一瞥した。目の前には、よく味が染みた大根と、がんもどき、そして練り辛子が添えられた皿が置かれている。
「……今日の市場の動きを見たか? 日経平均も為替も妙にきれいにまとまっているが、注文板の厚みや売買の内訳を見ると、相場を支えていた買いが細っているように見える。大衆は連日の最高値更新に浮かれているが、中身はすっかりスカスカだ」
「表面の数字だけを取り繕って、都合の悪いリスクを先送りしている証拠です。いつもの『いつまで持つか分からない安心の買い支え』ですよ」
氷室が箸を割り、出汁のしみた厚揚げを崩さないように口元へ運ぶ。濃口の醤油と出汁の旨味が、冷え切った身体に染み渡っていく。
「まったくだ。今の世間は、少しでも足元が揺らぐと見ると、すぐに生贄を求めてヒステリックに叩く。……少し前に、どこかの学校で起きたささやかなゴタゴタですら、ニュースじゃ連日大騒ぎだ。不祥事を起こした教師を吊るし上げ、道徳がどうこうと道化が群れをなして論じている」
鬼頭は盃を傾け、冷酒のようにすっきりと熱燗を喉に流し込んだ。
「……学校、ですか」氷室が間を置かず聞き返す。
「そうだ。教育現場なんてのは、世間の縮図のいちばん歪みが濃く出る実験室にすぎん。だが大衆は、その中の小さな摩擦を『異常事態』として切り離し、正義棒を振り回すことで自分たちの安寧を買っている。原因を根っこから放置したまま、目に見える結果だけを叩いて浄化されたつもりになるのさ。……まったく、相場の世界で一番タチの悪い『損切りの先送り』を見せられている気分だよ」
鬼頭のその言葉に、氷室の箸がわずかに止まった。
――学校のいじめ。先ほど、彼自身が校門の脇で視線を向け、メモ帳に書き留めた光景そのものだった。
鬼頭は氷室がそこで何を見てきたかなど知らない。だが、この国のシステム全体を支配する「根本の歪み」は、霞が関の経済政策であれ、裏路地の学校の教室であれ、全く同じアルゴリズムで駆動している。
氷室は静かにグラスを置き、目を見張った。
「奇遇だな……俺も今日、似たようなものを見てきたところですよ。あれは教育論の欠如などじゃない。この国が何世代にもわたって積み増してきた『欺瞞のポジション』が、一番抵抗力の弱いところへ向けてマージンコールを鳴らしているにすぎない」
「ほう……?」
鬼頭の目が面白そうに細められる。
おでんの鍋から立ち昇る白い湯気が、二人の男の表情をぼんやりと隠した。外の冷たい夜風が戸板を揺らす音をかき消すように、熱い出汁がコトコトと静かに煮え続けている。
「……で、どうするんだ、氷室。お前はこれから、その『強制ロスカット』の瞬間まで傍観者を貫く気か?」
「さあ、だが――」
氷室はグラスの熱燗に視線を落とし、微かに口角を上げた。
「……売りポジションを握りしめたまま夜逃げする連中の背中を眺めるのも、悪くないエンターテインメントかもしれない」




