第65章 裏側のパッチワーク
翌日、氷室は都内にある自らの小さな事務所へと戻っていた。
オフィスに入るとすぐに、社員の女性である真奈美が、共有端末のブラウザ履歴や山積みの書類を確認しながら冷徹な視線を飛ばしてきた。
「氷室さん、昨日までの動向レポート、まだ提出されてませんけど。まさかまた、公園のベンチで鳩でも眺めてサボってたわけじゃないでしょうね?」
「いや、資料の確認と……少し現場の視察をな」
氷室はわずかに肩をすくめ、コートをハンガーに掛けながら言い訳を口にする。かつての大蔵省時代や相場師としての冷徹な顔は、この事務所で真奈美を相手にするときは不思議と鳴りを潜め、どこか頭が上がらない空気を漂わせている。
「視察って、また勝手にフラフラして。こっちはあなたの尻拭いでスケジュールがパンクしかけてるんですよ。ちゃっちゃとデスクに座ってデータを処理してください、まったく……」
真奈美は呆れたように息を吐き、氷室の机の上に分厚い未処理のファイリング資料を無造作に叩きつけた。氷室は苦笑いを浮かべながら椅子に腰掛け、「はい、すみません」と大人しくペンを手にとる。その様子は、気の強い秘書に完全に仕切られた平社員のようだった。
真奈美は自分のデスクに戻り、手元のコーヒーカップに口をつけたが、ふと、険しかった表情をわずかに緩め、複雑な色を帯びた溜息をもらした。
「……で、どうせまた何か変なものを見てきたんでしょ。さっき共有端末の履歴を見たら、学校のガイドラインとか子供のいじめ問題について調べてたみたいじゃないですか」
氷室は手を止め、真奈美の横顔を見た。
「……なぜそれを知っている」
「共有の検索履歴に残ってたからよ。……実はね、うちの姉の子供、つまり私の甥っ子がさ、今通ってる中学校でちょっと面倒なことになっててね」
真奈美はカップをソーサーに置き、視線を窓の外に向けた。その声音には、普段の鋭い事務処理のトーンとは違う、微かな焦燥と疲労が滲んでいた。
「面倒なこと、とは」
「いじめ……みたいなんだけどさ、学校側に相談しても、『アンケートでは該当する事実はありませんでした』『学校の対応手順に沿って確認しました』って説明するばかりで、本人への聞き取りや、その後の状況確認が十分に行われているようには見えないのよ。子供はあきらかに学校に行きたがらなくて、家では塞ぎ込んでいるのに、学校側はマニュアル通りの定型文を繰り返すだけでさ」
氷室は真奈美の言葉を聞きながら、数日前に小学校の校門前で見た真新しいプリントの文言を思い出していた。
「いじめ防止対策推進法や、重大事態のガイドラインか」
「そう、それよ。学校の連中は、いじめを解決することじゃなくて、『ガイドライン通りに処理したというアリバイ作り』にしか必死になってないの。書類上の手続きさえクリアしていれば、実際に子供がどう追い詰められてようが関係ないって顔をしてる」
真奈美は悔しそうに拳を軽く握りしめた。
氷室は万年筆のキャップを外し、机の上のメモ帳を引き寄せた。
「その対応は、まさに制度のパッチワークだな」
「パッチワーク?」
「あぁ。国は現場に免責のためのチェックリストを押し付け、学校側は責任逃れのためにそのマニュアルを盾にする。誰も子供の現実なんて見ていない。システム上の『異常なし』というステータスを通すことだけが目的化している」
氷室のその冷静すぎる分析に、真奈美は冷ややかな目を向けた。
「理屈はいいのよ、氷室さん。そんな綺麗事みたいな分析を聞くために話したわけじゃないわ。……それで、その構造とやらは、うちの甥を救ってくれるわけ?」
「……いや」氷室は目を伏せた。「救うどころか、そのシステム自体が、子供たちから逃げ場を奪っている」
オフィスの静寂の中に、パソコンのファンの音だけが低く響く。
真奈美はしばらく無言で氷室を見つめていたが、やがて視線を自分のデスクに戻し、「……仕事に戻ります。あなたも早くそのレポートを仕上げてよ」とだけ吐き捨てて、キーボードを叩き始めた。
氷室は一人、手元の白紙のページを見つめ直した。
金融市場の流動性、霞が関の稟議システム、そして学校現場のガイドライン。形式上の整合性だけを整え、実体を置き去りにする構造はすべて同じだった。
真奈美の背中を見つめながら、氷室は静かに万年筆を走らせ始めた。
この歪んだ回路の最深部にあるものを見極めなければ、次世代の輪郭を食い潰すパッチワークの連鎖は、決して止まらない。




