第58章B 氷室の思索(楽園とディランの歌詞)
宿の一室。
氷室は部屋の隅に据えられたテレビの画面に、ぼんやりと視線を落としていた。画面の中では、昨今の止まらない物価高に関する特別番組が慌ただしく報じられている。特売セールの様子を伝える主婦のインタビューや、次々と値上がりしていく日用品のグラフ。しかし、その耳障りな喧噪の中でアナウンサーが口にした「需要の回復に伴う健全なインフレ」という言葉に、氷室は眉間をわずかにひそめた。
明らかな供給側の崩壊──地政学的リスクや気候変動によるモノの不足、あるいは市場に過剰に流れ込んだマネーがもたらした悪性のコストプッシュ・インフレであることは明白だった。それを、さも経済が反転攻勢に出たかのように言い換えるメディアの欺瞞。資本主義という巨大なシステムが要求する永続的な成長と、無限の拡大を前提とした価格の上昇。その構造がもたらす歪みを思うとき、テレビの向こうで語られる景気回復の美名がいかに現実の生活実感から乖離しているか……。
これ以上無意味なノイズを受け付けないとでも言うように、氷室は無造作にリモコンのボタンを押して、テレビの画面を闇に沈めた。
部屋の隅から、冷蔵庫のコンプレッサーが低く微かなうなりを立て続けている。静まり返った暗闇の中で、佐伯の乾いた言葉が脳裏に蘇った。
「オレたちが追っているものは、上辺の背景でしかないのではないか」
佐伯の言う「宿痾」の正体とは、一体何なのか。
部分が自律性を失い、ただ全体に依存し、搾取されるだけの器官に成り下がったとき、その全体もまた、自らを支える足場を失って瓦解する。主客転倒の病理は、まさにこの「全体と部分」の接続の機能不全にこそあるのではないか……。
では「宿痾とは何だ?」
氷室にはそれ以上推し量る術もなく、ただ得体の知れない闇が、こちら側をじっと覗き込んでいるようにしか思えなかった。
違和感の匂いを追いかけ、探れば探るほど自身の欺瞞が浮き彫りになる気がした。
「もしかすると、追いかけているものそれ自体が、自身の欺瞞の匂いなのかもしれない」
氷室は暗くなった窓の外を静かに見つめ、そんな思いに囚われていた。
答えの出ないまま、氷室は簡易ベッドから重い身体を起こした。冷え切った冷蔵庫から緑茶のペットボトルを取り出し、キャップを捻る。喉を突っ切る冷たさは鈍い痛みを伴って神経に染み渡り、凝り固まった思考の澱をわずかに散らした。部屋の明かりを落とし、再びベッドに身を投げ出す。
眠れぬまま時間だけが乾いた音とともにすり抜けていく。天井の木目の陰影を数えながら、あてもなく紡がれていた思考は、やがて行き場を失って停滞した。澱のように重なる中で、ふと、ある言葉が輪郭を伴いながら思念の中で揺らぎ始めた。
「楽園って、何処にあるんでしょうね」
──楽園──
道に迷っていた老女の突飛な言葉が、ふと脳裏を掠める。
今まで考えたこともない、たわいもない荒唐無稽な『楽園』という言葉。ポッカリと空いた心に、何かしらの意味があるように思われた。
ただ、漠然と思考は彷徨い続ける。
「そもそも、アダムとイブは何故、楽園を追われたのか?」
たかが禁断の果実を食べたからと言って、楽園を追われるとは、神様も何ともケチ臭い──。
楽園とは一体何を意味するものなのか。追放されたアダムとイブ。その追放の果てに延々と彷徨い続けている人類の歴史。あてもなく織りなされていく思索の網の目は、全く意味をなさぬまま広がっていった。
その散漫な意識の隙間に、ある歌詞の一節が不気味なほど鮮明なノイズとなって滑り込んできた。
「ここを抜け出す道があるはずだ」
道化師が泥棒にそう言った
「あまりにも混乱していて休むこともできない
実業家達は俺のワインを飲み、
農民は俺の土地を耕す
彼らの誰一人として、
ワインや土地の価値について知らない」
「そんなに興奮しなくてもいい」
泥棒がやさしく言った
「我々の周りにも、人生は冗談に過ぎないと感じている奴が沢山いるじゃないか
でもお前や俺は、もうそういった事を卒業したんだ
そしてこれは、俺たちの宿命じゃない
だからもうウソを話すのはやめようじゃないか
もう夜も更けてきた」
見張塔から王子達が
ずっと外を見張っていた
その間、女達や裸足の召使い達が
出たり入ったりしていた
遠くのほうでヤマネコがうなり声をあげた
馬に乗った二人が近づいてくる
そして風が吼え始めた
ディランの「見張塔からずっと」の歌詞だった。
様々なフレーズが不可思議なコントラストを伴い、現実を浮き彫りにしていく。それは明確な答えを示しているものではないが、何かしらの意味深きものとして輪郭を帯びていく。氷室のなかにあった焦燥や欺瞞の感覚と奇妙に噛み合い、ひとつの冷たい寓話のように胸の底に沈着していき、やがて思索の檻は静寂の中へ溶け込み、氷室は深い眠りに落ちていった。




