第58章A:氷室の日常(静かな崩壊)とお婆さんとの出会い
地方の古い都市。 氷室は、錆び付いたシャッターの並ぶ商店街のアーケードの下を歩いていた。 視線の先には、平日の昼下がりにもかかわらず人影のないアスファルトの道路と、かつての賑わいを物語る色褪せた看板が静かに並んでいる。
「昔はね、ここも歩く隙間もないくらい人が溢れていたんだよ」 近くのベンチに腰掛けた老人が、虚空を見つめながら呟いた。 「だけど、若い連中はみんな東京に出て行った。残ったのは、この古い家と、動かない水道管と、誰も来ない役所の窓口だけだ」
氷室は立ち止まり、黒い表紙のメモ帳を開いた。 万年筆のペン先を走らせ、静かに文字を刻み込む。
――『依存と静かな崩壊。人口の流出と、維持できなくなったインフラの残骸』
都市の中枢で書類が澱のように滞留し、その末端ではインフラと生活の基盤が音もなく風化していく。 中央集権的なシステムが効率と責任回避を最優先させ続ける中で、見えない場所から順番に、血流が失われていくような感覚がこの国全体を覆っていた。 氷室は万年筆を走らせると、冷え切った風が吹き抜けるアーケードを背にして、再び歩き出した。
商店街の一角を抜け、街路樹が整然と続く住宅街を通り過ぎた所で足を止めた。一人の老女が、手書きの地図を握りしめてキョロキョロと辺りを見回している。
何を思ったか、らしくもなく氷室は老女に声を掛けた。
「道に迷ったんですか?」
老女は視線を氷室に向け、一瞬の間を置いてから、嬉しそうに歩み寄ってきた。
「教会を知りませんか? 探しているんだけど、分からなくて……」
老女はそう言って、手書きの地図を氷室に差し出す。
「教会?」
氷室は地図を受け取り、しばらく「んー?」と思案に暮れた。歪んだ線の合間に書かれているのは、「赤い屋根」「大きな木」、そして『ヨハネの涙』という、およそ地図とは思えない暗号のような走り書きだった。
「この辺りだった気がするんだけどねぇ」老女が心細げに言う。
氷室はスマートフォンの地図アプリで確認したが、それらしいものは見当たらなかった。
老女は氷室を頼るように視線を向ける。土地勘のない氷室は途方に暮れたが、老女の藁にもすがるような視線が、有無を言わさず自分に注がれていた。
「わかりました、お婆さん。一緒に探しましょう」
なんとかなるだろう、と意を決して氷室が言うと、老女は「ウフフ」と小さく笑った。
「本当に?」
安堵の眼差しと子供のような瞳を向ける老女を連れ、氷室は歩き出した。
あてのない探索だったが、氷室はひとまず、住宅街の中でひときわ目立つ「大きな木」——古びたクスノキが枝を広げる交差点を目的地に定めた。
難なく大きなクスノキの交差点に行き付き、更に二人は老女の記憶を頼りに路地裏を抜け、商店街を過ぎ、高層ビルの谷間を進んだ。しかし、教会は見つからない。
歩きながら、氷室は自身の行動に内心で苦笑していた。いつもなら他人の面倒事に首を突っ込むような性分ではない。奇妙な気分だった。
老女は昔話に花を咲かせている。「昔はここは何もなかったの。畑や田んぼの畦を歩いて……」
氷室は「あーそうですか」と相手をしながらも、心持ちは穏やかではなかった。完全にどこがどこやら分からなくなり、完全に道に迷ってしまっていた。
仕方なく路地の小さな交差点で立ち止まる。カーブミラーに、二人の姿がやけに小さく映っている。
氷室は気まずそうに、ハハハと笑いながら「迷っちゃったみたいですね」とバツ悪そうに言った。
しばらく無言のまま辺りを見回していた老女は、「迷子なの?」と少しおどけた声を上げた。その声が、静かな路地にぽつんとこだました。
遠くで車のクラクションが風に乗って微かに聞こえる。二人はしばらく身じろぎもせず立ち尽くしていた。氷室はもう一度地図アプリで確認しようとスマホを取り出し掛けた、その時。
小高い森の茂みの向こうに、教会らしき建物を見つけた。
「もしかして、あれは……」
氷室がそこを指差すと、「あっ」と老女が目を丸くした。記憶を辿るように何度も頷きながら、「そう、あの教会」と嬉しげに言い、氷室に視線を投げかけた。
小高い森の陰から木枯らしがカサカサと音を立て、辺りは薄暗く人気もない。気づけば二人は、見るも無惨な廃墟と化した教会の前に立っていた。
十字架はとっくに外され、剥げかけた白壁にはツタが絡みつき、打ち捨てられたステンドグラスの枠組みからは冷たい灰色がかった空が覗いている。かつては人々の祈りと生活の中心であったはずの場所が、今や誰の記憶からも切り離され、ただの「不要な建造物」として風景の中に溶け込んでいた。
老女は「はーっ」と呆然とした吐息を漏らし、「まだ、私が若かった頃、一度だけ友達に誘われて来たことがあるの」と誰に言うともなしに言葉を紡いだ。
「あの時、聞いたお話が物凄く印象に残ってて、もう一度来てみたかったの」と氷室に視線を向けた。
「ヨハネの涙のお話。アダムとイブの楽園追放の最初の涙から始まり、ヨハネの涙で楽園への回復がなされるお話」と懐かしむように老女が言った。
「楽園‥‥ですか?」唐突な話に氷室は面食らいながらも問い返した。
それには答えず、老女はポツリと呟いた。
「楽園って、何処にあるんでしょうね」
何かを心に刻印するような、寂しげな響きだった。
氷室は黙って、ただその言葉の意味を反芻するしかなかった。
ゴォーーーーン……
静まり返った木立の向こうから遠く寺の鐘が物悲しげに響く。
「んーーいや、違うだろぉ」氷室は憮然とした表情で「神様も何てミスチョイスなんだ」と半ば呆れる思いで、廃墟と化した教会を見つめていた。
二人はしばらく、その場所を散策しながら、氷室が老女を最寄りの駅まで送ることになった。
道中、老女は何事もなかったかのように、よもやま話に夢中になっていた。氷室はそんな彼女の様子に安堵を覚える。
別れ際には連絡先を交換した。氷室自身、なぜか不思議と違和感を抱くこともなく、穏やかな気持ちでその場を後にした。




