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『東京インバージョン』  作者: Moon


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第57章 交錯する視線(公園のベンチにて)

午前の冷えた空気が乾いた葉を揺らす初秋の公園で、氷室は緑青の浮いた古びたベンチに腰を下ろしていた。足元には、黒い表紙のメモ帳と、コンビニで買った微糖の缶コーヒーが置かれている。目の前を横切る遊歩道では、色づき始めたケヤキの並木が、澄んだ青空の下で規則正しい影を落としていた。

取材の合間のわずかな静寂を味わっていたその時、砂利を踏む軽い足音が近づいてきた。

「――こんなところで何をしてるんだ、氷室」

聞き覚えのある声に顔を上げると、トレンチコートの襟を立てた佐伯が立っていた。その手には、使い古された革のブリーフケースと、裏表がメモで埋め尽くされた取材手帳が握られている。目の下にはうっすらとクマが浮かび、ここ最近の過酷な追跡劇の気配を色濃く残していた。

「佐伯さんか。……アンタこそ、こんな場所でどうしたんです」

「少し離れた所で、古い倉庫の管理記録を当たっていてね。足が疲れたんで、一息ついていたところだ。隣、いいか?」

佐伯はそう言うと、返事を待たずに氷室の隣にどっかりと腰を下ろした。ジャケットのポケットからタバコを取り出し、火をつけようとしてやめ、代わりに冷めかけたペットボトルの緑茶のキャップを開けた。

「で、どうなんだ? お前の追っている方は。何か掴めたか」

佐伯が問うと、氷室は缶コーヒーに目を落としたまま、静かに首を横に振った。

「表面上の数字や規程の整合性を追うほど、逆に全体がどこに向かっているのか分からなくなる。誰も法を破ってはいない。ただ、誰も全体を把握していないまま、システムだけが勝手に巨大化し、末端の人間をすり潰している……そんな感覚だ」

佐伯は苦笑いを浮かべ、前方の木立を見据えた。

「奇遇だな。俺も全く同じ気分だ。どれだけ特ダネを掘り起こし、スクープとして紙面に書き殴ったところで、翌日には新しいニュースの波に飲み込まれ、社会の構造なんて1ミリも変わりゃしない。俺たちが書いている記事なんて、せいぜい朝の通勤電車の中で消費される一過性の消費物でしかないのさ」

自嘲気味に笑いながら、佐伯は言葉を続けた。

「記者になりたての頃はさ、表の綺麗事のイデオロギーや思想には、必ず裏の意図があると思ってた。思想やイデオロギーそのものを否定する必要はないが、それが『誰かにとって都合のいい道具』として使われていないか。『誰が得するのか』。言葉ではなく資金と行動の履歴を見ろ、歴史的なパターンと照らし合わせろ……そして巨悪を糾弾する。そんなことばかり追ってきたよ。でも、違うんだよな」

吐き捨てるようにそう言うと、佐伯はふと視線を遠くに泳がせた。

「……昔さ、親父がよく言ってたんだよ。若い頃からずっと工場の隅で、不条理な機械の仕組みを眺めて生きてきた人間だったがね」

「親父さんが?」

「あぁ。『このまま日本という国が効率と前例主義だけで進んでいけば、いつか取り返しのつかない大きな代償を払うことになる』ってな。『誰も悪くないのに、全員がシステムに縛られてすり減っていく時代が来る』って。当時は、何を大げさな世迷言を言ってるんだか、ジジ臭いって聞き流してたが……この歳になって、なんとなく分かるようになったよ。その言葉の真意がね」

「真意……?」

氷室はわずかに身を乗り出した。

佐伯は首を振り、手元のペットボトルを強く握りしめた。

「漠然とだけどさ、俺たちが今こうして追っているもの、あるいは暴こうとしているものってのは、その構造や上辺の背景を知ったところで、それ自体は答えにはならねぇんだと思う。俺たちが直面しているのは、単なるスキャンダルや汚職じゃない。この国の経済や組織の根底に巣食う、もっと根深い『宿痾(しゅくあ)』そのものだ。その正体を見極めるべきだと、最近は考えてるよ」

佐伯はそこで言葉を切り、腕時計に目をやった。文字盤の針は、次の取材の約束の時間が迫っていることを告げている。

「おっと、そろそろ時間だ。組合の人間と倉庫の管理責任者が待ち合わせているんでね」

佐伯はガタリとベンチから立ち上がり、コートの裾を払った。

「お互い、深みにハマりすぎないようにな。泥沼の底には、誰も責任を取らない巨大な空洞しか空いてねぇんだからさ」

それだけ言い残すと、佐伯は足早に公園の出口へと歩き去っていった。その後ろ姿は、いつにも増して孤独な一匹の探求者のように見えた。

氷室は一人残されたベンチで、佐伯が残した「宿痾の正体」という言葉をゆっくりと反芻しながら、再び黒い表紙のメモ帳を開き、鉛筆の先を走らせた。佐伯の言葉も、自分の観測も、すべては巨大な迷宮の一部片に過ぎないという思いが、冷たい秋の風とともに胸の内に深く染み渡っていった。

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