第5章 氷室の観測
場外馬券場の裏手、灰皿の置かれたコンクリートの隅に、パイプ椅子が三つほど無造作に並べられている。その一つに、氷室舵は浅く腰掛けていた。
目の前のベニヤ板のテーブルにはスポーツ新聞が広げられ、競馬中継の音に混じって、小型テレビから流れるニュースの音声が建物の壁に跳ね返っていた。
『……昨日発生した地方局での電波障害について、警察と関連各所は依然として原因の特定を急いでおり、市場関係者からはセキュリティ面を不安視する声も……』
頭上を中央線の電車が通過し、足の裏に細かな振動が伝わった。
氷室は新聞の出走表ではなく、その隅にある小さなオッズ欄の数字に目を落とした。
12,840。
昨日より、わずかに膨らんでいる。
そのとき、隣の男がスマートフォンを見ながら吐き捨てるように言った。
「昨日のあれ、結局なんだったんだよ。気持ち悪い」
「さあな。株の話だろ。どっかがやらかしたんだよ」
別の男がスマートフォンから目を離さず、気だるそうに答えた。男たちは目の前の中継画面や出走表には目もくれず、ただスマホの画面に映る別の情報――誰かが群がっているトレンドの波だけを確認していた。
市場の歪みやオッズの裏を突くような、プロの冷徹な観察眼などそこには微塵もない。あったのは、ただ「みんながそっちに流れているから」という理由だけで、自分の頭で考えることを放棄し、他人の背中を追いかけているだけの焦燥だった。
氷室の指が新聞の端で止まった。
高架を電車が通り過ぎ振動が消えると、周囲の話し声が妙に遠く感じられた。
男がスマートフォンを二度タップし、適当な買い目を確認する。それから財布の中身ではなく画面の数字を見つめたまま、わずかに眉をひそめた。
氷室は男の手ではなく、その目をよく見た。
馬を見ていない。
目の前に走る本物の馬や、そのオッズの根拠には一切目を向けず、ただ「他の人間がどこに金を突っ込んでいるか」という他人の動線だけに怯えながら、なんとなく指を滑らせている。そこに意志はない。あるのは、ただの「群れのうねり」だけだ。
氷室は新聞へ視線を戻した。隅の数字が、目に入ったまま離れなかった。
12,840。
「……動線だけを追って、誰も中身を見ていない」
声には出さなかった。
男が隣の男に何かを呟いた。氷室には聞き取れなかった。ただ、男の指が人気を集めているだけの馬を一度だけ乱暴に叩いた。
氷室は新聞の余白に丸을つけた。
その丸が何を意味するのか、自分でもまだ決めていなかった。 ただ、中身を伴わない動線が数字だけを膨らませていく場所には、必ず何かが残る。氷室はそれを追っていた。
新聞を二つ折りにして立ち上がる。受付の女が吸い殻の回収に新聞の束を抱えて近づいてきた。
「それ、捨てますよ」
氷室は新聞を軽く押さえた。
「いや。そのページだけ残して」
女は怪訝そうに新聞を見た。
「何か書いてあるんですか」
「数字」
女は一瞬黙ったが、面倒そうに息を吐いて新聞をテーブルの端に戻した。
氷室は振り返らず、自動ドアを押した。夜気が入り込み、場外馬券場の煙草の匂いが一瞬だけ薄くなる。
氷室はそのまま雑踏へ出た。




