第二部 第49章 処理できない夜
午後九時を回った頃。
財務省の官僚である佐竹は、手元の端末のディスプレイが放つ青白い光に照らされながら、硬直した表情でキーボードの上をさまよわせていた指をぴたりと止めた。
室内の天井に埋め込まれた蛍光灯は半分が間引きされ、深夜特有の乾いた静寂が執務室を包んでいる。だが、佐竹の耳には、隣の席で同期の男が荒く吐き出す溜息や、フロアの遠くで鳴り続ける内線電話の電子音が、まるで神経を逆撫でるようなノイズとして絶えず届いていた。
佐竹が画面上に開いていたのは、放置されていた数兆円規模のインフラ資産移管に関する特例スキームの電子データだった。
そのデータを現在の会計システムへそのままインポートし、形式上の「処理済み」ステータスを立てようと、彼は数時間にわたって格闘を続けていた。しかし、画面の隅には何度リトライしても、冷徹なエラーコードが点滅し続けるだけだった。
――『エラー:旧会計法規第十四条の但し書きに基づく例外コードが、現行の統括データベースのスキーマと不整合を起こしています。上位部門による手動のクリアランス承認が必要です』
「……ふざけやがって」
佐竹はかすれた声を漏らし、背もたれにドサリと全体重を預けた。
手元には、この問題の処理を押し付けられたときから溜まり続けている紙のメモや、過去の担当者たちが残した引き継ぎの付箋が、まるでゴミの山のように積み上がっている。誰もこの巨額の資産を故意に隠蔽しているわけではない。しかし、システムの仕様と古い法的規程の隙間に挟まったそのデータは、誰が触ろうとも「そのままでは通せない」という構造的な拒絶反応を返してくる。
「佐竹、まだやってるのかよ」
隣のデスクから、疲労の色が濃くにじんだ同僚の低い声が飛んできた。男は目をこすりながら、自分の画面から目を離さずに言った。
「そんな古いスキーム、お前一人で片づけられるわけないだろ。上の連中だって、どうせ誰も本気で中身なんて見てないんだから、適当なところで『要・上位協議』のフラグを立ててトレイの奥にでも突っ込んどけよ。深追いしたら、こっちの首が飛ぶぞ」
佐竹は返事をしなかった。
同僚の言う通りにするのが、霞が関の官僚として最も合理的な生存戦略であることは頭で分かっていた。ここで下手に正義感を出してデータの整合性を追えば、責任の所在が自分一人に押し付けられ、気づいたときにはすべての不始末を背負わされている。
だが、佐竹の指先は、なぜか「閉じる」ボタンではなく、エラーログの詳細を表示するテキストエリアにマウスカーソルを合わせていた。
冷え切った執務室の中で、画面の小さな点滅だけが、まるで出口のない迷路の行き止まりを告げるように、ただ淡々と明滅を繰り返している。
その頃、同じく霞が関の別のフロアでは、直人が山積されたクリアファイルの山を前にして、重い決裁トレイの底へ書類を滑り込ませていた。誰もが「自分たちの管轄ではない」と免責の防壁を積み上げ、システム上は一瞬で終わるはずの処理が、無数のデスクの間で静かに、そして不可逆的にせき止められていく。
誰も全体を把握することのないまま、ただ冷たい紙の束とデジタルなエラーコードだけが、巨大な回廊を彷徨い続けていた。




