第48章 空白の地平
数兆円規模の中核資産が宙に浮いたままであり、誰もそこに手をつけることができないまま、東京の街は何事もなかったかのように動き続けている。
氷室は手元に残された佐伯の記事の切り抜きと、古い信託規程の断片が記された数枚のコピーを見つめていた。
「違うな……」
誰に言うともなしに氷室は呟き。
それらをメディアに持ち込んで世論を動かそうとも、御子神を追い詰めるために再び電波ジャックを行おうとも思わなかった。
「……答えを探していた訳ではない」
漠然としたものが氷室の脳裏によぎる。
誰もが直接的な悪意を持っているわけではない。その場の判断や慣習の連鎖が導くもの。その日々の繰り返しが、目の前の手続きだけをこなす積み重ねが、それらは狡猾な者たちが仕組んだ構造の悪を滑らかに維持し、加担するための不可欠な歯車となっていく。全体を見通せないまま部分だけを動かす人々の営みが、そのまま巨大な不正の隠れ蓑になっているという残酷な現実を前にして、人間はただ、目の前の数字を整え、期限に間に合わせるために生きているのだという諦念のようなものが胸を満たしていた。
東京の歩道は工事のために狭く区切られ、通勤途中の自転車がベルを鳴らし、人々はそれぞれの目的地へ向かってただ一列に歩いていく。
氷室は一度、流れの外側で立ち止まった。
前から来た自転車をやり過ごす。
ふと、若い頃の記憶がよぎる。理財局の机で古いファイルを開いたあの朝。自分が残した一行は、まだ消えていなかった。
それから、氷室はほんの少しだけ歩幅を合わせ、再びその人間たちの流れの中へと歩き出した。




