第50章 戻ってきた書類
翌朝、午前十時十五分。
主計局の合同執務室の一角。直人が手元のデスクに積み上げられたクリアファイルの山を見下ろしていると、数日前に彼自身が「保留および詳細データの照会要求」のステータスを入力して脇のトレイへ避けていたはずの移管申請書が、上層部の回付ルートを経て思いのほか素早く、しかし澱のような重みを纏って舞い戻ってきた。
表紙に貼られた付箋には、斜め走りした乱暴な署名と朱書きの文字が刻まれている。
――『所管外。旧スキーム第十四条の例外規定に抵触する恐れあり。本省の統括部門ならびに前年度の引き継ぎ台帳に基づく合意形成を経ること』
「……戻ってきたか」
直人が低く呟いて椅子の背もたれに深く体重を預けると、ファイルの中身をめくった。この数日間のうちに経由したであろう複数の部署の判子が幾重にも重なっている。誰も予算の執行そのものを法的に拒絶したわけではない。ただ、「自分たちの管轄ではない」「前例の例外処理には上位の承認が必要だ」という免責の言葉が、何重もの層となって書類の厚みを増しているだけだった。
隣のデスクで、同期の男が疲労にまみれた顔で画面から目を離し、直人の手元のファイルにちらりと視線をやる。
「おい、それ……また戻ってきたのかよ」
「ああ」
「当たり前だろ。あんな数兆円が絡む古いスキームの残骸、誰も自分の代でハンコを押したくないに決まってる。お前もさっそく上の決裁箱に突っ込んで、自分の手元から追い出しとけよ。持ってるだけで損だぞ」
誰も悪意を持って案件を握り潰しているわけではない。だが、構造の隅々にまで浸透した「責任回避の最適化」が、システム全体の血流を確実にせき止め続けている。直人は渋々、そのファイルに新たな付箋を一枚重ね、「要・統括部門協議」と書き殴ると、再び重い決裁トレイの山へとそれを滑り込ませた。
その頃、北関東のインフラ公社から送られてきた定例の支払い申請データもまた、財務省主計官室の端末で「保留」の二文字を赤く点滅させていた。
担当官が眉間を押さえながら開いた直近の回付履歴には、直前で審査を担当した別のセクションからの冷徹な申し送りが残されている。
――『該当資産の権利帰属および旧スキームにおける担保権のクリアランスが未確認。現行の会計法規第42条に基づく例外処理の適用範囲外につき、支払いの執行を一時凍結する』
「……またこれか」
誰もが法規の文面を盾に、自らのデスクに責任の爆弾を置かないための防壁を積み上げる。システム上は数秒で処理できるはずの巨額のキャッシュフローが、霞が関の無数のデスクで静かに、そして不可逆的に淀んでいく。窓の外では午前の乾いた陽光が石畳を照らしているが、執務室の空気は誰の手にも負えない手続きの澱によって冷ややかに凍りついていた。




