第44章 直人の判断
直人のデスクの上には、先週から持ち越された予算配分の最終確認データが、青白い光を放つディスプレイの端に固定されていた。
第三項目の数値。その微小な0.3%の差異は、もはや単なる個人の入力ミスや一時的なエラーの枠を超え、下位組織から上がってきた別の承認スキームや配送先の選別データへと、完全に定着していた。
毎朝の通勤電車の中で、直人は窓ガラスの冷たさに額を預けながら、スマートフォンの画面に映る未読の決裁件数を無言でスクロールしていた。車内は鉛色の空気を吸い込んだ乗客たちの低い息遣いで満ち、吊り革にすがるそれぞれの指先は一様に強ばっている。乗客たちは周囲の視線を避けるようにスマートフォンを凝視するか、あるいは疲労に耐えるように静かに目を閉じていた。霞が関の巨大な石造りの庁舎に足を踏み入れ、自分の島へと戻ると、同僚の上野が無造作に置いた紙コップから微かな湯気が立ち上っていた。「北関東の件、また下から確認が来てますよ」。直人は「ああ、あとで見とく」とだけ返し、冷めかけた緑茶を一口飲んでから、端末の画面に向き合うのだった。
直人はマウスのスクロールホイールに指をかけ、その行を何度も上下させた。
画面に並ぶ数字の列を見つめていると、過去の記憶が重くせり上がってくる。
モニターの画面に映し出された0.3パーセントの微細な数値の乖離を前にして、直人の脳裏に澱のような記憶がよみがえった。
それは、かつて彼がまだ下位の係長として、初めて省内の巨大な予算配分の監査に関わったときのことだった。当時の直人は、数字のわずかな不整合を見つけ出し、それを正しく修正しなければ行政の正当性が揺らぐと信じ込んでいた。深夜の執務室で徹夜の末に作成した詳細な是正報告書を手に、彼は当時の局長――いや、父である乾の冷徹な背中を思い出した。あのとき、膨大な書類の束を前にして自分がどれほど正当な手続きを訴えようとも、乾は書類を一瞥しただけでこう言い放ったのだ。
――「そんな数理の端数にこだわって全体のスケジュールを止めるな。微小な修正にかまけて明日の予算成立を飛ばす方が、国家にとっては桁違いの損害だ」
個人の正義や細部の正確さなど、組織の巨大な推進力の前では無力なノイズにすぎない。その教えは、官僚という生態系で生き残るための冷酷な知恵として、直人の身体の奥深くに染み込んでいた。
直人は目の前の修正欄を見つめ、マウスを握る手に力を込めた。
あの日の教えに従えば、この0.3パーセントのズレなど「許容範囲内の誤差」として丸め込み、次の工程へスムーズに流してしまえばいい。誰も咎めないし、むしろ処理の早い優秀な官僚として評価されるだろう。
しかし、指先は動かない。
かつては絶対的な真理として受け入れた父の言葉が、いまや底知れない虚無の入口のように彼の前に口を開けていた。
直人はマウスを放し、キーボードの上に置いた両手をゆっくりと膝の上へと下ろした。ディスプレイの青白い光だけが、葛藤の色を失った彼の無表情な顔を冷たく照らし出している。
直人は修正欄から目を離し、オフィスの窓の外を見つめた。
霞が関の街並みは、相変わらず整然とした規則正しさで午後の光の中に収まっている。ビルの谷間を縫うように走る車列、規則正しく点滅する信号、そのすべてが完璧に統制されているように見える。だが、その下で動いているのは、誰一人として全体を見通せないまま、ただ「前の判断」を次の誰かに預け続ける構造にすぎない。
直人はマウスを軽く叩き、確認済みのアイコンをクリックした。
画面上の数値はそのまま次の処理トレイへと吸い込まれ、二度と戻ってくることはなかった。直人は自分の指先から離れていくその記録を見送りながら、乾と同じように、小さく息を吐き捨てるだけだった。




