第41章 関谷の調査
十月二十五日、午後二時十五分。
東京地検の地下資料室は、夜を越えた空調の乾いた音に包まれていた。紙をめくるたび、古いコピー用紙の粉っぽい匂いが指先に残る。
関谷は細長い机の上に、四つのファイルを並べた。
宮崎県椎茸生産組合。
霞が関の経済官庁。
内閣府法務調整室。
民間企業の人事評価課。
一つずつなら、どれも検察が扱うほどの話には見えない。
関谷は一番左のファイルを開いた。
「まず、椎茸組合から」
隣の事務官が資料をめくる。
「高瀬という組合の担当者です。帳簿上では、六万三千円を消耗品費として処理しています」
「実際は?」
「乾燥機の部品代です。銀行記録では、市内の機械業者へ六万三千円。摘要も部品代になっています」
関谷は帳簿と銀行記録を横に並べた。金額は同じだった。
「金額は合っている」
「はい」
「では、何が問題なんだ」
事務官が、別の紙を差し出した。
「委託条件の照合です」
関谷は目を上げた。「そこを説明してくれ」
「設備を次の管理先へ移すとき、単純に機械だけを送るわけではありません。どの工場が使うのか、誰が運用するのか、修理費を誰が負担するのか、管理名義をどこへ移すのか。そういう条件をまとめて確認します」
関谷は帳簿に目を戻した。「つまり、設備の移管と契約の移管を、別々には扱わない」
「はい。関連する記録を一つの処理単位で照合します」
「その照合で、帳簿と銀行記録が食い違った」
「そうです」
関谷は六万三千円の数字に指を置いた。「帳簿を直せば済む話じゃないのか」
「直せば、今度は別の記録と合わなくなります」
関谷は何も言わず、最初のファイルを閉じた。「次」
二つ目のファイルが開かれた。霞が関の配分データだった。
「直人(秘書官)が通した数字です。第三項目に0.3%の差があります」
関谷は画面のコピーを見る。「0.3%。これが?」
「単独なら、ほとんど問題になりません」
「単独なら、か」
事務官が頷いた。「この数字が次の配分表に引き継がれています」
関谷はページを追った。予算配分。管理対象。配送先。工場別の割当。数字が一段ずつ下へ降りていく。
「配送先まで来るのか」
「はい。統合運用台帳の処理です」
関谷はそこで初めて、その名称を資料の中に見つけた。
「統合運用台帳……」
「設備や契約だけを管理する台帳ではありません。設備がどこにあり、誰が使い、どの契約で動き、どの名義で管理され、次にどこへ移るのか。相互に条件がつながっているので、一つの移管を確定するときに、関連する記録をまとめて照合します」
関谷は、先ほどの椎茸組合の資料を一枚だけ引き寄せた。六万三千円。そして、0.3%。性質の違う数字だった。
「この二つが、同じ処理に入るのか」
「最終的には」
事務官が画面を操作した。
TR-7042。その番号が表示された。
関谷は数字を見た。「これは何だ」
「移管処理です」
「何を移す」
「設備そのものだけではありません。設備の運用権、委託契約、管理名義、資産側の記録まで、次の管理先へ確定させる処理です」
関谷は画面を見たまま黙った。ようやく、二つのファイルが一本の線になりかけていた。
「だから、現場の小さな数字でも止まるのか」
「正確には、数字そのものが止めるわけではありません。その数字を前提にした別の記録が動いてしまうからです」
「一つを直すと?」
「先に動いた処理と、後から直した処理が二つ残ります」
関谷は顔を上げた。「二重になる」
「はい」
それだけ聞いて、関谷は二つ目のファイルを閉じた。「三つ目」
内閣府法務調整室の資料が机に置かれた。第十四条第三項。
関谷は原稿と電子データを見比べた。「ここが違う」
「はい」
「元は『現場の裁量による調整を妨げない』。現在の電子データでは、『所管官庁の事前協議を経るものとする』」
「如月が修正を加えています」
「その後の確認は?」
「保留されています」
関谷は眉を寄せた。「修正されたまま、確認されていない?」
「はい」
「それでもシステムには入った」
「入っています」
関谷は椅子の背にもたれた。「そうすると、現場の人間はどちらを基準にする」
「従来の運用です」
「しかし、台帳側には新しい条件がある」
「はい」
「現場が配送先を変更したら?」
「現場では正しい処理です。しかし、システム側では事前協議がないため、未承認になります」
関谷は三つの資料を見た。帳簿。配分。条文。どれも、それだけを見れば異常とは言い切れない。だが、同じ移管処理の中に入ると、互いに条件を食い違わせる。
「三つ目も、TR-7042か」
「はい」
関谷は小さく息を吐いた。「分かった。次」
四つ目は人事評価だった。山岸。評価欄には、「異常なし」と記されている。
「松永がつけた評価です」
「その結果、どうなった」
「山岸の工場は再編対象工程のリストに残ったままです」
関谷は画面のコピーを見る。「工場は正常だったのか」
事務官が、別の資料を差し出した。納品記録。実際の入荷記録。
関谷は二枚を見比べた。システム上では正常。しかし現場では、部品が届かず、一部のラインが止まっている。
「記録が違う」
「はい」
「誰かが嘘を書いたのか」
「今のところ、そうは言えません。評価基準に従えば、松永の処理には理由があります。納品記録も、システムが受け取った情報だけを見れば正常です」
関谷は山岸の名前を指でなぞった。「実際には止まっている」
「はい」
「それでもシステムでは動いている」
「はい」
関谷は四つ目のファイルを閉じた。
机の上に、四つの記録が残った。帳簿と銀行。配分と配送。条文と承認。評価と現場。
関谷は、それぞれの組み合わせをもう一度見た。「……妙だな」
事務官が顔を上げる。「何がですか」
「同じ異常じゃない」
関谷は一つ目のファイルを開いた。「高瀬は帳簿を合わせようとした」
二つ目。「直人は、受けた指示を通した」
三つ目。「如月は、条文の確認を止めた」
四つ目。「松永は、評価基準に従った」
関谷は四冊を順番に指で叩いた。「それぞれの判断には、それぞれの理由がある」
「はい」
「なのに、最後には同じ処理番号に入っている」
事務官は画面を開いた。TR-7042。
「この処理は、何を確定しようとしている?」
「次の管理先です」
「それだけか」
「設備の移動先だけではありません。どの工場で稼働させるか。誰に運用を委託するか。どの名義で管理するか。資産側の記録をどこへ移すか。その一式を、矛盾なく確定させます」
関谷はしばらく画面を見ていた。「だから、一つの記録だけ直しても駄目なのか」
「はい」
「高瀬の帳簿だけ直しても、銀行側が残る」
「はい」
「0.3%だけ戻しても、すでに配送先が変わっている」
「はい」
「条文だけ戻しても、承認を前提にした記録が残る」
「はい」
「評価だけ変えても、現場の納品記録は戻らない」
事務官は答えなかった。
関谷は椅子に座り直した。ここで初めて、四つの事件が一つの処理として重なった。
「……TR-7042は、異常を見つける処理じゃない」
「はい」
「全部を一つの状態に確定する処理なんだな」
「そうです」
関谷は画面を見た。処理状態は、途中で止まっている。どの記録を正しいものとして採用しても、別の記録と衝突する。
「止めた場合は?」
「移管が完了しません」
「戻した場合は?」
「すでに進んだ処理が残っています」
「つまり」
関谷はそこで言葉を止めた。事務官が続きを待った。
「止めても動かない。戻しても、元には戻らない」
部屋の空調音だけが聞こえた。関谷は四つのファイルを見た。
「この先に何がある?」
事務官は画面をスクロールした。「資産側の記録です」
「金額は」
事務官の指が止まった。「……規模が大きすぎます」
「いくらだ」
「現時点の記録では、数兆円規模の国家関連資産に接続しています」
関谷はすぐには反応しなかった。「国家関連資産?」
「はい。ただし、現段階では、誰の資産なのか、誰に処分権があるのかまで確定していません」
関谷は画面を見た。物流の配送先。工場の稼働。委託契約。管理名義。資産移管。一見すると、まったく別の記録だった。それが一つの処理番号の下で結びついている。
「……誰かが金を動かそうとしている、という話ではないのか」
「まだ、そこまでは言えません」
関谷は頷いた。「なら、決めつけるな」
ファイルを閉じる音が、乾いた部屋に響いた。「誰かが悪いのかどうかも、まだ分からない」
事務官が尋ねた。「では、何を調べますか」
関谷は四つのファイルを重ねた。「この処理が、いつから始まったのか」
「はい」
「誰が作ったのか」
「はい」
「そして、誰が、どの権限で、次の管理先を確定できることになっていたのか」
そこで関谷は、机の端に残ったTR-7042の番号を見た。「それを確認する」
「関係者への照会は?」
関谷は少し考えた。「まず記録を固める。御子神、乾、氷室――それぞれ別に聞く」
「高瀬、直人、如月、松永も?」
「必要なら」
関谷は立ち上がった。「同じ話を聞く必要はない。自分が何を判断したのかだけ聞けばいい」
コートを手に取る。「その四人が同じことを言うとは思わない」
関谷は資料室を出た。扉が閉まる。
机の上には、四つのファイルと、一枚の処理記録だけが残った。
同じころ、資料室から少し離れた薄暗いアーカイブ端末の前に、氷室の姿があった。
関谷の動きとは別に、かつて理財局に在籍していた頃の人脈と記憶を頼りに、氷室はTR-7042が内包する最後の接続先を自らの手で追っていた。画面に表示されているのは、単なる地方の設備移管データではない。その奥で紐づけられた管理コードの数々だった。
「――まさか」
氷室はマウスを握る手に力を込めた。
コードの終着点にあったのは、北関東一帯に広がる旧防衛関連の特区指定プラント、そして軍需産業の生産ラインと直結した特殊資産の隠蔽スキームだった。表向きの「行政効率化」という名目の下、数兆円規模のインフラ資産を特定の民間企業へ無傷でスライドさせるための抜け穴が、あの例外規定とシステムの中に巧みに組み込まれていたのだ。
御子神が何を企図し、どこへ向かおうとしているのか。その全貌が、冷たい青色のディスプレイの光の中でカチリと音を立てて噛み合った。
氷室は画面からゆっくりと視線を外し、暗いフロアの天井を見上げた。
誰もが「システムが命じた手続き」をこなしているだけで、その行き着く先が国家の根幹を揺るがす特大の利権隠しに加担している。
氷室は冷徹な確信を胸に秘め、端末の電源を落とした。
机の上には、四つのファイルと、一枚の処理記録だけが残った。
TR-7042。
処理状態――未確定。




