第38章 途切れた回線
午前十一時二十分。
総理大臣官邸の地下二階、危機管理センターの一角にある専用作戦室。無機質な蛍光灯の光だけが、室内を包んでいた。天井に埋め込まれた換気ファンが、一定の低いうなり声を上げ続けている。
乾は、特設された長机の中央に陣取っていた。目の前に置かれた二台の黒い固定電話は鳴らず、モニタ群が硬質な黒板のように沈黙している。
その右脇には、折り重なった内線メモの束が、まるで塔のように積み上げられていた。
内閣参事官の真壁は、手元の受話器をガチャンと乱暴に置き、かすれた声を漏らした。
「……また、北関東のインフラ公社からです。送金の差し止めをめぐって、現場が完全にパニックに陥っています」
真壁の額には、冷房が効いているはずの室内にあって、脂汗が幾筋も伝っていた。
乾は椅子に深く腰掛けたまま、目の前の黒い直通電話にちらりと視線をやり、静かに首を振り。
「いや、問題はそこだけではない」
乾の声は、驚くほど平坦だった。
「いま内線で入ってきたのは、官庁街の各省庁から上がってきた『前例のない例外処理に関する確認要請』だ。……どの部署も、自分では責任が取れないからと、こちらの判断を上に丸投げしてきている」
「要請……ですか。向こうも、上が動かないからこちらに振るしかないわけですね」
「そうだ。だが、こちらに振られても、動かせるプロセスの実体がどこにもない」
乾は右手を伸ばし、冷めきった緑茶の入った紙コップを引き寄せた。唇をつけてみたものの、すでに中身はぬるかった。
作戦室の隅にある大型ディスプレイには、全国のインフラネットワークの稼働状況を表すマップが表示されていた。その大部分は青い光を放って安定稼働を示しているが、関東圏の北部、ピンポイントで指定された一画だけが、不気味なほどの完全な「無色の空白」としてぽっかりと口を開けていた。
「御子神からの連絡は、まだないのですか」
真壁は乾のデスクの脇へと歩み寄った。その足音が、妙に乾いた響きを持って室内に落ちる。
「ない」
乾は短く吐き捨てるように言った。
「専用回線のルーティングは生きている。だが、こちらから叩いても、向こうの端末は応答しない。あるいは、中央側ですでに接続そのものを切り離したかだ」
真壁は信じられないという面持ちで、目の前のコンソールパネルに目をやった。
「切り離した……? そんなことができるんですか、省庁間を直結しているあの基幹ネットワークを」
乾は答えず、ただ冷ややかに鼻を鳴らした。
御子神なら、いや、あの男が「止める」と決めたなら、どれほど重要で全国に波及するインフラの通信網であっても、権限の力学を使って一瞬で遮断させる。そういう人間だ。地方の公社や各省庁がどれほど悲鳴を上げようとも、上が「保留・切断」と判断した瞬間から、実務のデータルートは容赦なく断ち切られる。
真壁はごくりと喉を鳴らし、再び山積みの内線メモに視線を戻した。
御子神……いや、あの男が『引く』と決めたら、物理的にどんな巨大な配線だろうと一瞬で切る。そういう人間だ。
乾は冷め切った紙コップを再び机に戻し、ガタリと音を立てさせた。
「では、このまま放置すれば、午後一の定例会見で記者団から突っ込まれます。総理への直談判も時間の問題です」
「分かっている」
乾は視線をモニタから外し、真壁をまっすぐに見据えた。その瞳には、容赦のない疲労と、それ以上の冷徹な決意が宿っていた。
「……私への直談判なら、今ここで受けている。状況は私が一番分かっている」
乾は淡々とそう告げ、再び手元の資料に目を戻した。
作戦室の扉の向こうで、誰かが走る足音が遠ざかっていく。
国家の神経中枢を繋ぐ回線は今、確実に、そして取り返しのつかない速度で、内側から摩耗し始めていた。




