第37章 空白のトレイ
午前十時四分。
霞が関の合同庁舎、十三階の総合政策課のフロア。いつもより早い時間から、異様な活気があった。フロア中央の島に並ぶデスクの上では、数個の内線電話が同時に、あるいは代わる代わる鋭い電子音を鳴らしていた。
秘書官の直人は、手元の大型モニターに映し出された電子決裁の管理画面を見つめたまま、微動だにしなかった。
マウスを握る右手の親指が、カチリ、と小さく乾いた音を立てる。
画面の中央、優先処理トレイの最上段にあるはずの項目が、空白になっていた。
「――直人さん」
背後から声をかけられ、直人はわずかに肩を跳ねさせた。振り返ると、同期の上野が、額に汗を浮かべて立っていた。上野の手には、分厚い紙の束が握られている。
「どうなってるんだ、これ」
上野の声は、押し殺されていながらも、確かな焦燥に震えていた。
「何がだ」
「北関東の再編スキームの件だよ。朝一番で通るはずの最終承認が、どこで引っかかってる。うちの課のトレイにも、下位組織からの確認待ちデータが山のように積み上がって、もう処理しきれない」
直人はモニターから目を離さず、ゆっくりと首を横に振った。
「こちらでも分からない。自動バッチのログを見る限り、午前六時すぎの段階でデータ自体は流れているはずなんだが……」
「流れているのに、落ちてこないのか」
「途中でブロックがかかっている。システムの根幹部分で、親データと子データの紐付けが外れたような状態だ」
直人はマウスを動かし、問題のコードを表示させようとした。しかし、画面には「処理中」という冷たい文字が点滅するだけで、詳細なログツリーへとアクセスすることはできなかった。
室内の空調の音が、大きく響いた。隣の席の職員が受話器に向かって「ですから、現在確認中でして……」と、すでに何度繰り返したか分からない言葉を、機械的に発していた。
「このままだと、午後の予算配分の全体会議に間に合わないぞ」
上野は紙の束をデスクの端に叩きつけ、直人の肩越しにモニターを覗き込んだ。
「上の連中は何か言ってるのか。御子神のところか、それとも官邸か」
「どちらからも音沙汰はない」
直人は乾いた声で答えた。
「連絡がつかないのか」
「つかないのか、それとも対応に追われてそれどころじゃないのか……。どちらにせよ、私たちの手元には『エラー』の二文字すらまともに降りてきていない。ただ、データだけが宙に浮いている状態だ」
上野は唇を噛み締め、フロアの奥にある窓の外へと視線を投げた。
秋晴れの青空の下、霞が関の官庁街を行き交う車の流れは、規則正しく続いていた。だが、その足元で、国家の巨大なシステムを繋ぎ止めていたはずの目に見えない一本の細い糸が、音もなくプツリと切断されていた。
直人は再びマウスに手をかけ、更新ボタンをクリックした。
画面は無機質な白さを保ったまま、何の変動も示さない。その空白のトレイを見つめながら、直人は背筋を這い上がる冷たい汗の感触を、ただ受け流していた。




