第36章 微小なズレの堆積
午前九時十五分を少し回ったころだった。
新宿の大手コンサルティング会社の本社ビル、三十階のガラス張りの会議室。空調の低い駆動音だけが、室内に満ちていた。テーブルの中央には、冷めかけた紙コップのコーヒーが置かれ、その液面に天井のLED照明が歪んだ白い円を描いている。
プロジェクトマネージャーの鈴村は、手元のタブレットから目を離さず、親指の腹で何度も同じ箇所をスワイプしていた。
画面の端で、データ同期のステータスを示す小さな青いインジケータが、規則正しく点滅を繰り返している。
「……まだですか、鈴村さん」
窓際に立っていた副部長の三好が、外の秋晴れを背に、低く呟いた。その声には、すでに十分近い長さの苛立ちが滲んでいた。三好は腕時計の文字盤に目を落とし、秒針の動きを確認するかのようにわずかに首を傾げる。
「システム全体の九割以上は、すでに午前中のバッチで正常に落ちています」
鈴村は顔を上げず、静かに答えた。
「ですが――」
「ですが、なんだ」
「北関東側のマスターデータの一部で、昨夜からの自動集計のツリーが一本、どうしても結線されないんです」
鈴村が指先で画面をタップすると、ツリーの末端を示す「参照番号:TR-7042」の文字列が、鮮やかな赤色で警告を放ったまま固定された。
会議室の空気が、わずかに重くなる。三好は窓際からゆっくりと戻り、テーブルの縁に片手を突いた。足音が、静かな室内に響いた。
「昨日の夕方には、もう解消しているはずの案件だろう」
「ええ。ですが、途中で手動の差し戻しが入った影響で、下位のプロセスのタイムスタンプがずれています。システムが、過去の処理と現在の実務データのどちらを正とすべきか判断できず、ロックをかけています」
「解除にはどれくらいかかる」
「手動で全ログを精査すれば半日ですが……」鈴村はそこで一度言葉を切り、カップの縁に溜まったわずかな結露を指先でなぞった。「下手に触ると、連鎖している他の配分プロセスまで巻き添えで落ちます。いまは、上の判断を仰ぐしかないかと」
三好は深い溜息をつき、テーブルの上に置かれた資料の束を乱雑に指先で叩いた。
「上が動ける状態なら、こんなところで足踏みはしていないさ。……官邸側も、昨夜からの問い合わせでパンク寸前らしい」
「では、このまま放置しますか」
「放置して自然に解消する規模の数字か、それは」
三好の問いに、鈴村は即答できなかった。
画面の中では、わずか「0.7%」に満たないエラーの数値が、沈黙したまま赤く点滅を続けている。それは一見すると無視できるほど微小な誤差にすぎなかった。
しかし、その背後では、国家資産管理の紐付けが、完全に麻痺していた。
廊下を歩くヒール音が遠ざかっていく。室内の静寂の中で、紙コップのコーヒーの湯気が、もうすっかり消え失せていることに鈴村は気づいた。




