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『東京インバージョン』  作者: Moon


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35/60

第35章 山岸の朝

十月二十五日、午前六時四十二分。

地方工場の控室。夜勤明けの空気が、まだ重く立ち込めていた。

山岸はベッドの端に腰掛け、手元の白い封筒を眺めていた。その厚みが異様だった。指先が封筒の角に触れ、昨夜、帰宅したときに郵便受けに入っていたことを思い出す。差出人は会社の総務部。宛名は、山岸の名字だけが印刷されている。

山岸は封筒を開け、中から出てきた一枚の書類に目を落とした。

「解雇通知」

黒いインクで印刷されたその文字を、山岸は口の中で繰り返した。声は思ったより乾いていた。喉の奥が、朝の冷気でこわばっている。封筒を閉じ、机の上に置くと、角が木目に小さな音を立てた。カチリ、という音が、部屋の中に残った。

山岸は立ち上がり窓の外を見た。まだ暗い空が広がっている。東の空が、わずかに白んでいる。隣の家の屋根に、朝の光が薄白く反射している。電気ケトルでお湯を沸かし、マグカップに残っていたインスタントコーヒーに注ぎ足した。苦い液体を喉に流し込むと、胃のあたりが重く沈む。

山岸は封筒を手に取り、制服のポケットへ滑り込ませた。スマートフォンを掴んでポケットに押し込み、シャツに袖を通す。ボタンを一番上まで留め、鏡の前でネクタイの結び目を整えた。自分の顔の輪郭に、最近少しだけ深い影が差しているように見える。

「……行くか」

鞄を掴み玄関を開ける。早朝の乾いた空気が頬を打った。自転車の鍵を差し込み、駐輪場から表通りへと漕ぎ出した。チェーンが規則正しい金属音を立てて回り始めた。工場へ続く緩やかな坂道を登りながら、山岸は頭の中で今日の作業手順を反芻する。信号で止まったとき、山岸は一度だけポケットの上から封筒に触れた。中身を確認する必要はない。何が書かれているかは、もう分かっていた。

工場の更衣室では、十歳ほど若い作業員が隣で着替えていた。男はスマートフォンの画面を親指でスクロールさせながら、作業着のボタンを留めている。

「山岸さん、おはようございます」

「……おう」

若い作業員はスマートフォンをポケットにしまい、重い足取りで山岸の方を向いた。

「昨日の……通知、読みました?」

山岸は、自分のロッカーの扉を音を立てて閉めた。乾いた金属音が、ガランとした更衣室の空気を冷たく震わせる。

「……ああ、さっき目を通した」

「……これから、どうするんですか。納得いかないっすよ、十年以上ここで働いて……」

若い作業員はわずかに言葉を詰まらせ、落ち着かない様子で自分のロッカーの縁を指先で叩いた。突然言い渡された解雇の事実と、明日からの生活への不安が、その小さな仕草に滲み出ている。

山岸は新しい作業着のポケットに手を入れたまま、鞄のなかにしまってある封筒の角を指先でそっと押さえた。

「どうするも何も……上が決めたことだ。こっちは、今日できる仕事をこなして言われた通りに現場を回るしかないだろ」

「それだけで、済む話なんですかね……」

作業員は自嘲気味に息を吐き、それ以上深く突っ込むことをやめた。彼は諦めたように作業着のボタンを一つずつ留め直すと、視線を伏せたままロッカーの前を離れていった。

更衣室に残されたのは、換気扇の低い駆動音と、冷え切った空気だけだった。山岸は閉じられたロッカーの鉄板に背を預け、静かに息を吐き出した。

自分の持ち場である第3組立ラインの前に立つ。モニターに映し出された朝の始業前チェック画面は、異常を示すことなく均質な青白い光を放っていた。昨晩のうちに自動バッチ処理が通っていたらしく、各端末のステータスはすべて「待機中」の緑色で揃えられている。

山岸は特に画面を凝視することもなく、キーボードを軽く一度叩いてログを流し、システムを本稼働の状態へと切り替えた。余計なエラーや警告の文字は見当たらない。すべてが、驚くほど平穏に、そして機械的に整えられていた。

「……始めるか」

低く呟き、流れてくる樹脂製の筐体を一つ手元に引き寄せる。電動ドライバーを手に取り、正確な位置にビスを当ててトリガーを引いた。キリキリという締結音が小気味よく響く。

隣のラインで作業をしていた若い作業員が、部品の詰まりについて何か声をかけてきたが、山岸は手元の作業を止めずに短い返事だけで返す。一連の動作を淡々とこなしていく。ビスを打ち、検査票に日付と自分のイニシャルを書き込み、次の製品へ手を伸ばす。

午前中の短い休憩時間。山岸は隣の小さな休憩室で、紙コップの自動販売機から買った温かいブラックコーヒーを手に持っていた。プラスチックの飲み口から立ち上る湯気が、冷えた眼鏡のレンズをわずかに曇らせる。

テーブルの向こうでは、先ほど更衣室で話した若い作業員が、ペットボトルの緑茶を飲んでいた。男はちらりと山岸を見たが、それ以上言葉を交わすことはなかった。休憩室の壁際に掛けられた時計の秒針が、乾いた音を立てて進む。窓の外には、曇天に覆われた工場の敷地と、その向こうの殺風景なアスファルトの道路が見える。

山岸はポケットの中でスマートフォンに触れた。画面には触れない。山岸は余計な私事を頭の隅に追いやり、冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。

「そろそろ戻るか」

山岸は紙コップに残っていたコーヒーを飲み干し、立ち上がった。背後で、工場全体の基幹モーターが低くうねり声を上げた。第一コンベアのベルトがゆっくりと動き始める。

山岸は休憩室を出て、作業帽のツルをキュッと引き締め直した。目の前を流れてくる部品へと最初の手を伸ばす。

その手は、昨日までと同じ正確な動きをしていた。

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