第34章 松永の判断
十月二十五日、午前九時十四分。
会社の評価室では空調の低い駆動音と、絶え間なく響くキーボードの打鍵音だけが満ちていた。
松永はモニターから目を離し、椅子の背もたれに深く体重を預けた。天井の蛍光灯の光が磨き上げられたデスクの天板に白く反射している。
目の前には、地方工場の再編対象リストと、各現場から吸い上げられた職員の適格評価データが並んでいた。カーソルが点滅するその真ん中に、山岸の名前がある。
先月、松永が「異常なし」と軽く承認し、システムへと流し込んだ評価データ。それが今、部署を越えた自動集計プログラムのなかで、新たな「標準的な適格値」として勝手に引用され、上位の決裁トレイへと組み上げられようとしていた。
室内の空気が、ひどく重く感じられた。隣の席の男が電話の受話器を置き、低いため息をつく。その一呼吸の空白が、妙に長く松永の耳に残った。
松永はマウスに手を伸ばし、カーソルを山岸の評価欄に合わせた。ここで「要確認」のフラグを立て直せば、工場の現場や所管の部署まで差し戻しの連絡が走り、膨大な量の確認作業と責任の擦り合いが連鎖的に発生する。今日予定されている午後からの全体予算会議にも確実に間に合わなくなるだろう。
自分の小さな一言が引き起こすであろう面倒の波紋を想像し、松永の指先がわずかに硬直した。
午前九時二十八分。
「松永さん、そのリスト、今日中に回せますか」
隣の席の男が声をかけてきた。
画面の中では、山岸の名前が点滅している。
「……ああ」
松永はためらいを断ち切るようにマウスを大きく動かし、「適正」の欄に小さなチェックを入れて「確定」のアイコンをクリックした。乾いたクリック音が、静かな室内に響いた。
「これ、今日中に回して」
「分かりました」
男が評価リストのファイルを抱えて評価室を出ていく。扉が閉まり静寂が戻った。松永は空になった自分の手元を見た。山岸の名前は再編対象工程のリストに残ったまま、次の処遇・再編の前提として自動的に引用されていく。
自分が下したそのごくありふれた妥協の判断が、あの工場の片隅で日々の実務を共にしてきた男の運命を、どのように縛り付けていくのか。
松永はもう考えないようにして、次の電子稟議書のウィンドウを開いた。




