第33章 佐伯からの接触
十月二十五日、午前十一時三十二分。
西新宿の雑居ビルの一階にある、昼なお暗い喫茶店のボックス席。
テーブルクロスの古いコーヒーの染みを、佐伯は親指の爪でぼんやりと引っかいていた。向かい側に座る氷室は、注文したブレンドのカップに口をつけぬまま、立ち上る細い湯気を見つめている。店内のスピーカーからは、音量の絞られたFMラジオのジャズが遠くの雨音のように響いていた。
「……で、お前が追っているのは、結局のところ何なんだ」
佐伯のかすれた声が、静かな店内に響いた。
カップを置く音、氷室が瞬きをする微かな気配、そして隣の席の客がスプーンを皿に当てる金属音。そのすべてが二人の間の重たい空気を引き延ばしていく。窓の外では秋の強い日差しがアスファルトを照りつけ、行き交う人々の影が慌ただしく伸び縮みしていた。
氷室はゆっくりと視線を上げ、佐伯の濁った目を捉えた。
「何を追っているか、か」
「ああ。お前が先週から撒いてる小石、あちこちで妙な波紋を呼んでいるぞ。ゼロス・グループの周辺だ。官民ファンドの連中まで、下らない監査報告の不備を蒸し返されてピリピリしている」
佐伯はコートの内ポケットから薄いファイルを取り出し、テーブルの上に滑らせた。
中からわずかにのぞいた紙きれには、数日前に氷室が匿名で関係各所へ流した古いシステム承認書の断片が収められている。御子神の名が記されたその書類は、すでに本来あるべき場所を離れ、誰かの不安を煽るための餌として独り歩き始めていた。
「ゼロスが何かを持っているんじゃない」
佐伯はファイルを閉じた。
「じゃあ何だ」
「持っていることになっている資産がある。だが、国もゼロスも、実際には自由に触れられない」
「なぜだ」
「古い名義が残っている。物流も、工場も、委託も、人事も、そこへ紐づいている」
氷室は黙っていた。
佐伯はテーブルの上の冷めかけたコーヒーを一口飲み、続ける。
「誰かが一箇所を直せば済む話じゃない」
「みんな、別々の場所で、もう別の正解を作ってしまってる」
氷室は資料から目を上げた。
「ゼロスがこれを持ってるわけじゃないのか」
「ああ」
「じゃあ何だ」
佐伯は答えるまで少し間を置く。
「受け取る側に入ってる」
「何を」
佐伯はわずかに声を潜めた。
「工場や倉庫だけじゃない。動かしてる権利ごとだ」
「受け取れていない」
「たぶんな」
「なぜだ」
「そこまでは、まだ分からない。だが――」佐伯は氷室の目をまっすぐに見据えた。「この書類を、御子神の目に触れさせろ。お前は御子神を動かせる。直接渡すのではなく、あいつの周囲の人間が見つけるような場所へ潜り込ませるんだ」
午後十二時五分。氷室はカフェを出た。
「お前がそこに忍ばせられるか」と問いかける佐伯に、氷室は「……考える」とだけ答え、コートの襟を立てて歩き出した。
氷室の読みでは、御子神は次に、処理を元へ戻そうとするはずだった。
しかし、佐伯がもたらした「別々の現実の矛盾」によって、その予測はすでに狂い始めていた。氷室はそれを予感していた。
午後一時十四分。
氷室は霞が関の合同庁舎の裏手に回っていた。
古い資料保管庫の近く。その植え込みの陰に、氷室はあの薄いファイルをそっと忍ばせた。御子神側が見つければいい。見つからなければ、それまでのことだ。
氷室は何も言わず、その場を離れていった。




