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『東京インバージョン』  作者: Moon


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第32章 御子神の失墜

十月二十五日、午前六時十四分。

御子神は、自社の制御室でモニタに向かっていた。

画面の向こうでは、霞が関の合同庁舎にある国家資産管理の制御室が、自動処理を実行していた。

床から這い上がるように冷たい蛍光灯の白い光が御子神のスーツの裾を照らし出し、周囲に控える三名の当直技術者が叩くキーボードの音だけが、低く規則正しいリズムで空間を支配していた。

「御子神様、自動バッチが走ります」

担当者の一人が、モニタの端に表示されたカウントダウンを示した。

御子神はゆっくりと頷いた。

「……始めろ」

声は、思ったよりもひどく乾いていた。

午前六時十四分三十秒。カウントダウンがゼロを迎えた瞬間、制御室の奥にある大型ディスプレイが一斉に更新を始めた。左側には現行マスターデータのステータス、右側には昨夜から続いている修正処理のログ。緑色の「正常」表示が次々と流れていくなか、御子神はその中央に表示された一つの識別番号に目を落とした。

TR-7042。

昨夜、御子神が「最初の処理に戻せ」と命じた案件だった。

画面の上で、TR-7042のステータスが「処理中」から「検証中」へと切り替わり、その下でサブ処理が三つ、四つと連鎖的に枝分かれしていく。

「……なんだ」

御子神が呟いた。

「御子神様、サブ処理が連鎖しています」

担当者の声が、わずかに上ずっていた。

「巻き戻し処理が、別の処理を呼び出しています」

「止めろ」

「……できません」

御子神はコンソールの端にある非常停止ボタンに手を伸ばしたが、その指先はボタンの数ミリ手前でピタリと止まった。

「なぜだ」

「中央の権限で、すでにロックがかかっています」

「誰がかけた」

「……記録にありません」

午前六時二十三分。制御室の空気は、鉛のように重くなった。

大型ディスプレイの左側、現行マスターデータの「正常」表示は半分ほどまで進んでいる。しかし、TR-7042の周辺だけが、おぞましい赤い警告表示を点滅させていた。

「TR-7042の同期が、宙吊りになっています」

担当者の一人が低い声で言った。

「どの程度だ」

「処理全体の、約0.7%です」

「0.7%……」

御子神はその数字を繰り返した。全体の99.3%は正常に処理されている。しかし、その残された0.7%が、どこにも接続されていない。執行も、返却も、修正も、すべてがシステムに拒絶されている。

午前七時五十二分。

制御室の重い扉が開き、若い技術者が分厚い書類の束を抱えて飛び込んできた。

若い技術者が持ってきた資料の表紙には、

「国家資産管理関連 第38号」

と記されている。

御子神は最初の頁を開いた。

そこに並んでいたのは、倉庫や製造設備の一覧ではなかった。

それらを含む事業群と、運用権、保全契約、未処理の移管条件だった。

金額欄の桁を見て、御子神の指が止まった。

数兆円。

しかし、その資産は消えたわけではない。

誰かに渡ったわけでもない。

ただ、移すことも、戻すことも、売ることもできない状態で、画面の下層に残っていた。

「……あの時点では、これでよかったはずだ」

御子神は、絞り出すような声を漏らした。

午前八時過ぎ。

静寂を切り裂くように、内線電話のベルが鳴り響いた。

受話器を取った御子神の耳に、乾の緊張を孕んだ低い声が流れ込む。

「御子神さん、TR-7042の件ですが――」

「……ロックされている」

「巻き戻しは、こちらからも通りません。北関東側からの問い合わせが相次いでいます」

電話の向こうで乾が息を詰まらせる気配がした。総理である乾すらも、この予期せぬシステムの破綻のあおりを受けて外からの対応に追われている。乾は慎重に、しかし隠しきれない焦燥を滲ませて告げた。

「あなたが戻そうとした処理は、すでに別の部署、別の時間、別の自動処理へ波及しています。官邸のルートを通しても、もう戻せません」

乾は一度言葉を切ると、冷徹な事実だけを淡々と告げた。

「その向こうにある資産は、どの管理先にも確定していません。どこへも流れないまま、完全に宙吊りになっています」

御子神の喉がカラカラに乾いた。大型ディスプレイの上で、TR-7042の赤い警告灯が容赦なく点滅を続けている。

御子神はゆっくりと椅子に腰を下ろした。背後では、重々しい金属の唸り声とともに、制御室全体の基幹モーターが低くうねり声を上げていた。

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