第28章 御子神の判断
十月二十四日の深夜。
外壁を叩く十月の夜風の音は、この高層階までは届かなかった。天井近くのダクトが、低い音を立てて冷気を送り続けている。窓の外では、航空障害灯だけが一定の間隔で明滅していた。
御子神はデスクの前に立ち、モニタに映し出されたデータを見下ろしていた。
部屋の照明は落とされており、モニタ群から放たれる青白い光が、御子神の横顔を照らしている。
画面に流れているのは、稼働プロファイルの末端で起きた、ほんのわずかな同期の揺らぎだ。
数年前、自分が承認した改修案件の識別コードが、画面の奥のログの隙間に薄く浮かび上がっていた。
御子神はその番号を見ただけで、すぐにマウスを動かして別のウィンドウへと切り替えた。
背後で、重厚な絨毯を踏む微かな足音がした。
乾だった。
「御子神さん」
乾はモニタの端に表示された物流関連の例外処理リストへ目を向けた。
その直後、部屋の奥の扉が開いた。
例の処理に関わる企業側の男が、資料を抱えて入ってきた。
五十代半ばほどの男だった。スーツの着こなしには余裕があるが、その顔には深夜のこの時間特有の疲労と、隠しきれない焦燥の色が滲んでいる。
男は御子神のデスクから数歩離れた位置で立ち止まった。御子神は椅子に腰掛けたまま振り返り、その光景を受け止めるように言った。
「夜分に、どうされました」
「御子神さん、例の件は、まだ動いているんですか」
男の声音には、張り詰めた苛立ちが混じっていた。
「いや、稼働は止めている」
御子神は静かに返した。
「止めているのに、なぜシステムの端末にログが残り続けているんです。外から問い合わせが来ています。資料を出せと言っています」
「どこからの問い合わせですか」
問われた男はわずかに間を置いてから答えた。
「……公的な照会です」
その言葉が落ちた瞬間、御子神の指がピタリと動きを止めた。
「そうですか」
男は一度、御子神の顔を見た。喉を鳴らしてから、続けた。
「上が動き始めている。これ以上、あのルートの不整合を放置すれば、厄介なことになります」
「放置はしていません」
御子神はゆっくりと立ち上がり、男を見据えた。
「最初の判断は合っていた。問題は処理じゃない。数字の端が暴れているだけだ」
男は一歩踏み出そうとしたが、御子神が何も言わないので、そのまま足を止めた。
「それなら」
御子神は静かに言った。
「余計なものは、ここで止めましょう」
御子神は物流の例外処理を示す項目にカーソルを合わせ、クリックした。
乾が、モニタの隅で変化する数値に目を走らせながら言葉を挟む。
「南西ブロックの倉庫が、受領済みの扱いになりません」
それを聞いても、御子神は事もなげに返した。
「止めればいい」
「止めれば、工場側は納品未完了として扱います」
顔色をうかがうように乾が言葉を継ぐ。
視線をわずかに乾へと向け、御子神が言った。
「それで困るのは誰だ」
「今週の工程を引き受けている会社です」
「なら、次の便を回せ」
画面に視線を戻した御子神が、低く命じる。
「次の便を回すには、契約条件の切り替えが必要です」
乾が推し量るように言う。
「後でいい」
その一言で、御子神は一切の議論を断ち切った。
男はまだ何かを言いかけたが、二人の間に流れる重圧と冷徹な手続きの連鎖に耐えかねたように、やがて短く息を吐いた。
「……頼みます」
男はそれ以上何も言わず、重い足音を立てて部屋を去っていった。
扉が閉まり、再び重厚な静寂が戻る。
御子神はデスクの縁に手を掛けたまま、窓の外の闇を見つめた。
「乾、頼む」
「はい」
乾は手元のデスクの端に置かれた内線電話を取り、番号を押した。
繋がった相手に、静かな、しかし有無を言わせないトーンで命じる。
「――例の件だ。予定どおり進めてください」
受話器の向こうから短い返答が返ってくる。
乾は落ち着いた声でそれに応じた。
「ええ。そこも含めてです」
これ以上、現場で何が起きようと関知しないと言わんばかりに、乾は音もなく受話器を戻した。
「……手配しました」
「ああ」
御子神はうなずいた。モニタの端では、更新された時刻だけが新しく表示されていた。




