第27章 氷室の観測
夜が更けた事務所のフロアには、当直のわずかな足音と、空調の送風口から漏れる低い風切音だけが満ちていた。
大半のデスクの灯りが消えた薄暗い一角で、氷室は一人、手元の端末のモニタに向かっていた。濃紺のシャツの袖をまくり、冷えたコーヒーの入った紙コップをデスクの端に置いたまま、細い指先をマウスの上で静かに止めている。
モニタに表示されているのは、各部署から回ってきた今週分の運用記録の一覧だった。
数日分の数値の並びが、冷たい青白い光を帯びて画面の上下に流れていく。
氷室は背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、ディスプレイの端に表示された一つの集計項目の上でカーソルを止めた。
画面の数値は、一見するとすべて正常値の範囲内に収まっている。エラーレートは規定の閾値を一度も超過していない。普通なら、誰もがここでログを閉じ、今日の作業を終えるはずのデータだった。
だが、氷室の目は、その集計データの端に引っかかっていた。
先週の同時期の記録と比較したとき、首都圏西郊の物流ラインと、特定の製造プラントから上がってきた末端の処理時刻の間に、わずかなズレが生じている。
それぞれの現場単体で見れば、許容誤差の範囲内、あるいは機器の経年劣化や一時的な負荷の変動で片付けられる端数にすぎない。
しかし、氷室は手元に引き寄せた過去の紙の出力資料と、現在のディスプレイの数値を交互に見比べた。
氷室は幾つかの記録を行き来した。どれも単独では問題にならない。だが、並べてみると、時刻だけが妙に近かった。
複数の小さなズレを追いかけながら、同期時刻の記録をたどる。
14時32分11秒。
その次の記録は、わずかに遅れていた。
「……近いな」
独り言が、静まり返ったフロアに小さく響いた。
機械的な誤差なのか、それとも現場の処理手順のわずかな揺らぎなのか。この段階ではまだ判断がつかない。以前見たエラーなら、どこかに原因になる数字が残っていた。だが、ここにはそれすらない。
氷室はマウスを操作し、さらに古い時期のアーカイブデータを開いた。
しかし、画面をスクロールしても、該当する記録は出てこなかった。
氷室は一度マウスから手を離し、小さく息を吐いた。
そして、デスクの脇に積まれた古いファイルの束へと手を伸ばす。端末の画面だけでは追いきれない過去の点検記録や、数年前にファイリングされたまま放置されていた紙の束を引き出しから引っ張り出す。
表紙の劣化した古いファイルを開く。黄ばんだ紙のページを、氷室は一枚ずつカサカサと音を立てながらめくっていった。
数年前に凍結されたはずの、現場管理システムの改修に紐づく古い承認書の束。
指先が、ある一ページでピタリと止まった。
鉛筆と朱肉の跡が残る古い書式。その最終承認者の欄に、見慣れない文字が刻まれていた。
――御子神。
氷室の指が、紙の端を押さえたまま動かなくなる。
モニタの光が、紙の上の文字と氷室の指先を照らしていた。
「……御子神か」
その名前を呟いた氷室の声に、特別な感情の色はなかった。氷室は御子神の名前が記された古い承認書を手前に引き寄せ、その日付と、先ほど画面で見た今週の処理記録の時刻を見比べた。
氷室は二枚の紙を並べた。一度、重ねる。すぐに離した。
別のファイルを開く。そこには別の担当者の名前があった。
氷室は紙を机の端へ戻した。
さらに別の部署の古い承認記録をめくる。そこには別の名前が並んでおり、御子神の名前はどこにもない。
氷室は手元の古い紙資料から目を外し、ディスプレイの隅に表示された別の日のログに目をやった。
数分間、静まり返った部屋の中で、紙をめくる音だけがカサリと響いた。
氷室は御子神の名前があるページを裏返した。
「……違うな」
氷室は小さく首を横に振った。
別の案件と重なっているだけかもしれない。
「……まだ早いな」
氷室は開いていたウィンドウを一つずつ手際よく閉じ、ディスプレイの表示を初期状態に戻した。
画面には再び、平穏な運用記録の数値が並ぶ。
氷室は椅子の背もたれに軽く体重を預け、手元の冷めたコーヒーの入った紙コップを持ち上げる。
口をつけぬまま、しばらくの間、暗いモニタの画面に自分の顔がぼんやりと映り込んでいるのを見つめていた。
やがて、氷室は静かにカップを机に戻すと、デスクの上に広げていた数枚の古い紙資料をただの束に戻した。
それを元のファイルに挟み込み、引き出しの奥へと重くしまい込んだ。引き出しの錠が、カチリと乾いた音を立てて閉まった。




