第22章:如月のファイル
霞が関の合同庁舎の一室は、蛍光灯の白い光で隅々まで満たされていた。外の景色は見えず、窓ガラスに映る室内の蛍光灯が、微かに反射している。
如月はデスクの上に積み上げられた、いくつかの紙束に目を落としていた。中央に置かれているのは、数日前に各部局へ配布された特措法案の改訂版の刷り出しだ。
数枚をめくる。指先が、特定の頁でぴたりと止まった。
第十四条の三項。その一行に含まれるべき例外規定の文言が、手元のファイルと、今朝送られてきた最新の電子データの間で、微かに違っていた。
紙の刷り出しには「ただし、現場の裁量による調整を妨げない」とある。
しかし、端末の画面で開いた最新の電子データファイルでは、その一文が「ただし、所管官庁の事前協議を経るものとする」へと書き換わっていた。
如月は画面の文字と、紙のインクの黒さを見比べる。どちらが正しくて、どちらがいつの段階で差し替えられたのか。それを辿るだけでも、余分な手間がかかる。
如月は小さく息をつき、内線受話器を引き寄せた。数コールののち、若い担当者の声が響く。
「如月です。昨夜の修正版の件ですが」
「あ、如月さん。お疲れ様です」
「ここ、第十四条の三項の例外規定の箇所ですが、実務上の調整権限の所在が書き換わっていますが、何か指示の変更でもありましたか」
受話器の向こうで、担当者が短い息を吐く音がした。
「ああ、そこですね……特段の新しい大臣指示とかではないですけど、先週の局内調整の段階で、文言の整合性を取るために官庁側の事前協議に寄せることで調整がついたはずですよ。実務上は問題ないと思いますけど」
「……そうですか」
「はい。全体のフォーマットに合わせた形ですので、このまま進めて大丈夫です」
「分かりました」
如月は受話器を置き、机の上の書類に目を戻す。
実務上は問題ない、と言われればそれまでだった。しかし、現場の裁量を認めていたはずの条文が、いつの間にか官庁側の事前協議へとすり替わっている。その小さな変更がどのような経緯で持ち込まれたのか、この画面の履歴だけでは正確なところは分からなかった。
如月はボールペンを取り出し、その該当箇所に細く赤い線を引いた。さらに、付箋を一枚取り出し、「14条3項 要確認」と書き付けてページの端に貼り付ける。
しかし、その場ですぐに上の部署へ確認を取ることはしなかった。今日の午後には別の法案に関する部会が控えており、これ以上の引っかかりを作れば、他のスケジュール全体が雪崩を打って遅れる。
如月は付箋を貼った書類をそのまま下のファイルに挟み込み、次の新しい書類へと手を伸ばした。
午後も休む間なく会議資料のチェックと決裁の処理が続いた。
デスクの周辺には、目を通すべき印刷物が山のように積み上がっている。如月は次々と判子を押し、修正が必要な箇所には鉛筆で薄くメモを残していく。夕方を過ぎる頃には、目の奥がズキズキと痛むようになっていた。
周辺のデスクの同僚たちも、一様に無言のままパソコンの画面光に向かい合っている。室内に響くのは、規則正しいキーボードの打鍵音と、時折交わされる低い事務的な会話だけだった。如月は一度大きく伸びをしてから、最後のファイルに目を通し、デスクの上を綺麗に片付けた。
夜遅く。如月が自宅のマンションの扉を開けると、室内の暖かな空気が流れ込んできた。
リビングのダイニングテーブルには、すでにラップをかけられた夕食が用意されている。キッチンからは小さな煮物の匂いが漂っている。
同居している母親が、奥の部屋から顔を覗かせた。
「遅かったね、由紀」
「うん、少し会議が長引いてね。母さんはもう食べたの?」
「先に食べたよ。温め直すから、少し待って」
「いや、自分でやるから、ありがとう」
如月はコートをハンガーにかけ、テーブルの椅子に腰掛けた。
鞄の中には、今日霞が関で赤線を引いたファイルが入っていた。如月はそれ以上仕事の話題に触れず、目の前の食事に箸をつけた。




