第三部 第21章 山岸の再演
十月の冷え込んだ朝だった。
工場の床は、夜の間に染み込んだ冷気をまだ重く残している。
前日の夕方、全社向けの通知が一本入っていた。山岸のところまで回ってきたのは、件名と短い本文だけの簡単なものだったが、それだけで現場の空気をわずかに重くするには十分だった。何かが変わる、あるいは何かを管理し直そうとしている。そういう予感を匂わせるだけの事務的な文面だった。
始業のチャイムが鳴る少し前。山岸は自分の持ち場である第3組立ラインのメインコントロールモニターの前に立っていた。画面には、今日の稼働に向けた初期診断のログが、青白い光を帯びて静かに流れている。
普段なら、すべてが緑色の正常値で埋まるはずのディスプレイだった。
だが、緑色の表示が並ぶ中で、ひとつだけ黄色く燻るインジケーターが残っていた。
「……なんだこれ」
山岸は低い声で呟き、手元のキーボードに指を置いた。
詳細なログを開く。英文と数字の羅列が画面を覆うが、一目見ただけで原因が分かる種類の表示ではない。
前にも、似たようなエラー表示が出たことがあった。去年の秋頃だったか、同じようにラインの起動時に黄色い警告が点灯した。あのときは、確か上長に報告を上げたが、面倒な確認書類と対策書の提出を求められただけで、結局はシステムの仕様上の誤差だという結論で片付けられた。
こういう表示は、再起動すれば消えることが多い。現場の人間が最も手っ取り早く、かつ無駄な労力を払わずに済むための手段だった。
山岸はマウスを滑らせ、画面のメニューから「再起動」の項目を選ぶ。
エンターキーを軽く叩いた。
画面の中で、黄色かったインジケーターが一度だけ明滅し、次の瞬間にはスッと綺麗な緑色の表示へと切り替わった。
警告のログは綺麗に消え、システムは通常通りの稼働準備完了を告げている。
山岸はキーボードから手を離し、小さく息を吐いた。乾いた室内の空気に混じる小さな溜息だった。
報告はしなかった。
前にも再起動で消えた。だから今回も、わざわざ上に知らせて書類を増やす必要はない。そう判断して、山岸はそのまま画面を閉じた。
始業の合図とともに、第3組立ラインが低くうなりを上げて動き出す。
山岸は流れてくる樹脂製の筐体を一つ手元に引き寄せ、電動ドライバーを手に取った。正確な位置にビスを当て、トリガーを引く。キリキリという締結音が小気味よく響く。
隣のラインで作業をしていた若い作業員が、部品の詰まりについて何か声をかけてきたが、山岸は手元の作業を止めずに短い返事だけで返す。
一連の動作を淡々とこなしていく。ビスを打ち、検査票に日付と自分のイニシャルを書き込み、次の製品へ手を伸ばす。
午前中の作業が中盤に差しかかるころ、ふと先ほど消した黄色いインジケーターのことが頭をよぎったが、目の前のコンベアは途切れることなく新しい部品を運び続けている。エラーの消えた画面の向こうで、システムは何事もなかったかのように安定した稼働率を維持していた。
午前中の短い休憩時間。
山岸は隣の小さな休憩室で、紙コップの自動販売機から買った温かいブラックコーヒーを手に持っていた。プラスチックの飲み口から立ち上る湯気が、冷えた眼鏡のレンズをわずかに曇らせる。
テーブルの向こうでは、十歳ほど若い同僚の男が、スマートフォンの画面を親指でスクロールさせながらペットボトルの緑茶を飲んでいる。
「山岸さん、昨日の夕方の通知、読みました?」
男が画面から目を離さずに言った。
「ああ。一応な」
「なんか、また面倒なデータ提出とか増えそうっすよね。上にいる人たちは、現場がどう動いてるか分かってないよなあ」
男は呆れたように軽く息を吐き、緑茶を一口飲んだ。
山岸はコーヒーの苦さを舌の上で転がしながら、紙コップの縁を指で撫でた。
「……そうだな。上が決めたことだ。こっちはやるしかないだろ」
「ですねえ」
男はそれ以上深く突っ込むこともなく、再びスマホの画面へと視線を戻した。
休憩室の壁際に掛けられた時計の秒針が、乾いた音を立てて進む。窓の外には、曇天に覆われた工場の敷地と、その向こうの殺風景なアスファルトの道路が見える。
山岸はポケットの中でスマートフォンに触れた。画面には触れない。土曜日の夜に実家へ電話を入れることを思い出した。ポケットの隅には、先日届いた役所からの封筒が入っていた。指先がその角に触れたが、すぐに離した。山岸はそれ以上余計な私事を頭の隅に追いやり、冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。
「そろそろ戻るか」
山岸は紙コップに残っていたコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
背後で、重々しい金属の唸り声とともに、工場全体の基幹モーターが低くうねり声を上げた。
第一コンベアのベルトがゆっくりと動き始める。
山岸は休憩室を出て、作業帽のツルをキュッと引き締め直した。目の前を流れてくる部品へと最初の手を伸ばす。




