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『東京インバージョン』  作者: Moon


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第18章 高瀬の選択

午後。

宮崎県の椎茸生産組合の事務所は、午後の乾いた光に包まれていた。

壁に掛けられたアナログ時計の秒針が、規則正しい音を立てて乾いた空間を刻んでいる。外からは、時折遠くを走る軽トラックのエンジン音がくぐもって聞こえるだけだった。

高瀬はデスクの前に座り、溜まった事務書類の山を見下ろしていた。手元には組合の帳簿と、今月の通帳、そして業者からの請求書が二枚並んでいる。

一番上に置かれた請求書を見る。

乾燥機の修理代、六万三千円。

高瀬は手を伸ばし、先月の帳簿のページを開いた。紙が乾いた音を立ててめくれる。そこには、三か月前に一時しのぎで別の項目から移した「五万円」の記録が、黒々としたインクで残っていた。

その五万円を今月の収入のどこかで補填しなければならないはずだったが、今月の収支はすでに予定の枠を使い切っている。

高瀬は電卓に手を伸ばし、何度か小さなボタンを叩いた。

液晶画面に冷たい数字が並ぶ。

六万三千円をそのまま計上すれば、今期の監査で引っかかる。

三か月前の五万円も、まだ戻せていない。

「……五万円を戻せば」

呟いてから、高瀬は自分で首を振った。

五万円を元の場所に戻したところで、この修理代六万三千円が宙に浮く。どちらにせよ、どこかの数字を動かさなければ、明日の組合の総会用資料の辻褄が合わない。

窓の外を見る。出荷作業を終えた隣のハウスの脇で、木製のコンテナが無造作に積み上げられているのが見えた。遠くの山の稜線には、まだ午後の強い光が張り付いているが、その輪郭は少しずつ霞み始めている。

事務所の奥にある古いコピー機が、スタンバイ状態の低いファンを回し始めた。誰も使っていないのに、勝手に熱を持った機械がううっと唸っている。

ポケットの中で、個人のスマホが一度だけ震えた。組合員の一人からの連絡かもしれない。高瀬はポケットに手を突っ込みかけたが、そのまま画面を出さずに手を引き抜いた。

高瀬はボールペンを持ち直した。

ペン先が、請求書の六万三千円と、帳簿の消耗品費の欄を往復する。

一度、ペンを置いた。

窓の外では、隣のハウスから軽トラックが出ていくところだった。

高瀬はその音が遠ざかるのを待ってから、もう一度ペンを取った。

ペン先を紙に押し当て、今回の六万三千円の請求書を脇に除けると、別の消耗品費の項目へと横滑りさせるように、手際よく、しかし慎重な筆致で数字を書き換えた。

「乾燥機修理費」の文字の横に、消耗品費の金額が残った。

高瀬はペンを置き、分厚い帳簿を荒っぽく閉じた。

パサリ、と乾いた音が事務所の空気を揺らす。

椅子から立ち上がると、足元がわずかに重かった。窓の方へ歩き、西の空に残るわずかな日差しを見つめる。

高瀬は机の上を見渡し、書き換えた帳簿をカバンの中に押し込む。

壁の時計は、思っていたよりもずっと先に進んでいた。

高瀬は事務所の天井の蛍光灯のスイッチを切り、薄暗くなった部屋を後にした。

廊下に出る。出口のガラス戸の前で一度だけ立ち止まり、背後を振り返った。誰もいない、静まり返った部屋の奥で、コピー機のファンだけがまだ微かに唸っている。

ドアを押し開けて外へ出ると、ひんやりとした夕方の空気が、火照った頬に冷たく当たった。

駐車場まで歩き、自分の車のドアを開ける。運転席に滑り込み、重いカバンを助手席に放り出した。

助手席の足元で、帳簿の入ったカバンがシートに当たっていた。

キーを回してエンジンをかけると、ダッシュボードの奥から古いラジオの音声が突然飛び込んできた。

「……政府は、新たな経済対策の一環として、地方自治体向けのシステム改修予算を発表しました。……」

高瀬は舌打ちを一つし、ボリュームのツマミを乱暴に回して音を消した。

そのままシフトレバーを入れ、車を駐車場から引き出す。

大通りに出る手前の交差点で、信号が赤に変わり、高瀬はブレーキを踏んだ。

交差点の向こう側の歩道を、帰宅途中の高校生たちが自転車を押しながら通り過ぎていく。誰もこちらの車の中など見ていない。

信号が青に変わる。

高瀬は前を向き、アクセルを踏み込んだ。エンジンの低い回転音が、夕闇の迫る舗装路に吸い込まれていった。

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