第10話 二人目の犠牲者
ユナは薄暗い二階の廊下を、そわそわと行ったり来たりしていた。
視線は自ずとルヴィスの部屋へ向く。ちゃんと眠れているか、吸血衝動に苦しんでいないか。気がかりでならなかった。
やがてルヴィスの鋭い怒鳴り声が聞こえてきて、ユナはどきりと身を竦ませる。息を詰めてルヴィスの部屋の扉を見つめていると、暫くして中から悄然としたレーヴァテインが姿を現した。
「……大丈夫か?」
ユナが声をかけると、項垂れたレーヴァテインはこちらを見上げた。いつも勝気な紅の瞳には、うっすらと涙が滲んでいる。
レーヴァテインはユナの姿を認めると、その胸へと飛び込んで嗚咽を漏らした。
「主様……! このままでは主様が死んでしまう……‼」
「ルヴィス……!」
ユナはレーヴァテインの小さな体を抱きしめた。できることなら、今すぐルヴィスを苦境から救ってやりたい。自分の血でそれが叶うなら、拒む理由などどこにもない。
だが、それをルヴィスが良しとするかどうかは別の問題だ。ルヴィスが人として生きたいと望んでいる事を、ユナは誰より知っていた。
確かに、王墓で弱っていたルヴィスはユナの血を口にした。強大な敵・フレイアを倒すために必要なことだったと、今でも思っている。
しかし、その後、ルヴィスは毎晩のように嘔吐していた。体は必要としていても、精神はその事実を受け付けないのだ。
ユナの血を吸えば、ルヴィスは一時的には力を回復するかもしれない。だが、それを実行したなら、ルヴィスは確実に今より苦しむことになるだろう。それを考えると、おいそれと自分の血を吸え、などとは口にできなかった。
(私は、無力だ……!)
ユナは唇を噛みしめる。
今や王墓だけでなく、アースガルドの防衛にはルヴィスが必要不可欠な存在だ。
そして、それ以上にユナはルヴィスに対し、個人的に必要な存在だと感じるようになっていた。
うまく言葉で表現することは難しいが、ルヴィスがいない日常はもはや考えられない。ルヴィスが苦しんでいるとユナも辛いし、ルヴィスが幸せそうだと自分も嬉しい――そんな、今までに感じたことのない奇妙な感覚だ。
それなのに、ユナがルヴィスに対して出来ることは、あまりにも少ない。
(ルヴィス……お前が例え、人の血を啜らなければ生きていけない吸血鬼の身だとしても、私はお前を信じている。英雄・ヴィルヘルム=シグムントでもなく、吸血鬼・ルヴィスでもない……おまえ自身を信じてる。お前が吸血鬼かどうかなんて、私には関係ないんだ……!)
どれだけ、ルヴィスに向かってそう言いたいかしれない。だが、ユナは面と向かってそれを口にできないでいた。何故かと考えるとよくは分からないが、ルヴィスとの関係が壊れるのが怖かったのかもしれない。或いは、ルヴィス自身がその言葉を望んでいないことを敏感に察していたからか。
(ルヴィスは日を追うごとに弱っている。このままではいずれ、深刻な事態に陥ってしまう)
どれだけ空元気で誤魔化そうとも、共に過ごしていれば嫌でも分かる。ルヴィスの顔色が徐々に悪くなっていることを。体も服で誤魔化しているようだが、確実に瘦せ細っている。
レーヴァテインは途方に暮れ、腕の中で涙を流し続けている。
ユナもまた、胸が締め付けられる思いだった。
朝日が差し込んできて、ルヴィスは目を覚ました。
ベッドの上に起き上がるが、ろくに睡眠がとれていないせいか、ズキズキと偏頭痛がする。全身に倦怠感が残り、眠る前よりむしろ疲れが増しているような気さえする。
それでも、何とかのろのろと起き上がり、着替えるためにクローゼットへと向かう。その内扉に取り付けられた鏡が、偶然目に入った。そこに映し出された自分の顔を見つめる。顔色が悪く、目の下には真っ黒い隈ができていた。
「……。ひでえ面だな……」
呻くように呟く。
体を動かすのも億劫だったが、今日も人型の吸血鬼の襲来に備えるため、聖騎士たちと共に見回りをすることになっている。昨日は幸いなことに、事件発覚以降は何もなかった。だが、相手が吸血鬼であることを考えると、いずれ『食事』をするだろう。気は抜けなかった。
いつもの黒いジャケットを羽織り、階下に降りると、ユナが聖騎士の軽装を纏って待ち受けていた。
「おはよう、ルヴィス。……よく眠れたか?」
「ああ、まあな」
ルヴィスは曖昧に返事を返すが、ユナは表情を曇らせる。それでルヴィスは、昨夜の事が彼女に筒抜けであることを悟る。
しかし、ルヴィスはそれに気づかない振りをした。悪夢のせいで精神的に疲れていたし、その話題には触れられたくなかった。
或いは、ユナにだけは同情されたくなかったのかもしれない。
とにかく、家を出ようとしたまさにその時、玄関の扉を騒々しくノックする音が響き渡る。ユナは、はっとして声を上げた。
「何事だ⁉」
すると、家の中に連絡係のハイノが飛び込んでくる。ここまで走ってきたのだろう、肩を上下させ、血相を変えながら捲し立てた。
「ほ、報告します! 市街地でまた、吸血によるものと思われる死体が発見されました‼」
「……何だと⁉」
ルヴィスとユナは、ほぼ同時に眉をひそめた。
朝の長閑な空気は一掃され、代わりに軋むような緊張感が圧し掛かってきた。
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ルヴィスとユナは、ハイノに導かれ、第二の事件現場へと急いだ。
それは、アースガルドの東側を流れるエルムト河のほとりだった。アースガルドには運河が何本かあるが、エルムト河もその一つだ。
遺体が放置されていたのは、そのエルムト河に接する倉庫街の一角だった。
一帯にはレンガ造りに半円状の屋根をした重厚な倉庫が立ち並んでいる。労働者が出入りする昼間はともかく、夜になると人通りは殆どない。
その一角に、一件目と同様、すっかり血を抜かれて真っ白くなった女性の遺体が放置されているのが発見されたのだった。
「今度は裁縫屋の娘……か」
ルヴィスは血を抜かれた娘の遺体を見つめ、呟いた。お針子だったというその娘には、やはり目立った着衣の乱れはない。ただ、首元にはどす黒い紫色をした歯形がくっきりと残されていた。
現場にはルヴィスやユナの他に、聖騎士ヴァルキリーと、死体検分のために呼ばれたフィーネの姿があった。フィーネは血を抜かれた娘の体を改めながら口を開いた。
「そうね。でもそれ以外は、一件目と全く同じ。被害者は女性で一人だけ。そして首筋にある噛み跡と、血を完全に抜かれた遺体。一件目の吸血鬼と同じ者による犯行……そう考えるのが妥当ね」
「……」
ルヴィスが顔を曇らせると、ユナも危機感を滲ませた声音で呟く。
「どうやら、この王都に人型の吸血鬼が潜んでいるのは間違いないようだな……!」
聖騎士たちの間に緊張と動揺が走った。恐怖と不安の浮かんだ顔で、互いに顔を見合わせている。見えない巨大な敵の存在に、途方に暮れているようだ。
緊迫する空気の中で、ユナの後ろにいた副騎士団長のグラニが、ルヴィスに含みのある視線を送ってきた。
「そうですな。少なくとも、目の前に一人いることは間違いありませんね」
ルヴィスはうんざりとし、グラニへ剣呑な視線を送り返す。疑われることは覚悟していたが、何か起こる度に犯人扱いされると、弁解する気力すらなくなってくる。すると、顔をしかめるルヴィスの代わりに、ユナがグラニを叱責した。
「グラニ……それはどういう事だ?」
「どうもこうも、言葉通りの意味ですよ」
ひょいと軽薄に肩を竦めるグラニ。ユナは言葉に苛立ちを込め、怒鳴った。
「ルヴィスはこの件とは関係ない……そう言っただろう!」
「私は、一般論を申し上げているだけです。貴族や聖騎士の中には、未だに吸血鬼王の関与を疑う者が多い」
「言いがかりだ! 現に、昨夜はずっとルヴィスは部屋にいた‼」
すると、グラニは眠たげなその両眼をすっと細める。
「それを証明できる物証はおありで?」
「……何⁉ 私が証言しているのだ、それで十分だろう!」
「噂になっておりますよ。ブリュンヒルデ騎士団長は、少々、吸血鬼王に肩入れしすぎなのではないか、と。僭越ながら、そのような状況下では、騎士団長の証言だけで無罪を立証するのは難しいのではないかと思われますが」
グラニはあくまで淡々とそう言ったが、その噂がもっと下世話なものも含まれていることは容易に想像できた。
王命であるとはいえ、若い男女が一つ屋根の下で生活を共にしているのだ。無理もないだろう。
だが、実際にはルヴィスとユナの間には、疑われているようなことは何もない。そのような噂を流布されるのは、誹謗中傷以外の何ものでもなかった。
「くっ……!」
ユナもグラニの言わんとするところを察したのか、恥辱と怒りで顔を真っ赤にし、唇を噛み締めている。ルヴィスは怒りを押し殺した低い声でグラニに詰め寄った。
「ユナを侮辱するのはやめろ」
「ルヴィス……!」
目を見開くユナを脇に退かせ、ルヴィスは早口で捲し立てる。
「そんなに俺のことが疑わしいなら、地下牢に繋ぐなり解剖するなりして、好き勝手に調べればいいだろ! ……今まで散々やってきたようにな‼」
「な、何を言うんだ! そんな事、できるわけがないだろう‼」
ユナが青い顔をする一方、フィーネはメガネの縁を押し上げながら冷ややかに答える。
「あなたをどうするかは、王がお決めになることよ。私たちは己の職務を全うするだけ。仲間割れをしていても意味はないと思うけど?」
「原因は俺か? こいつらが吹っかけて来たんだろ!」
「いちいち感情的になって反応するなんて、馬鹿げていると言っているの」
「ふん……そのセリフはそこの副騎士団長に言ってやるんだな」
ルヴィスは親指でグラニを指し示す。すると、グラニは両手を挙げて降参のポーズをしながら、おどけた口調で応じた。
「おっと、私は別に感情的になってはいませんが? ただ、世間の目は我々が思っているよりずっと厳しい、ということです」
グラニの言うことは分からなくもない。事実、その通りなのだろう。二度目の事件が起こってしまったことによって、吸血鬼であるルヴィスは勿論、それを封じ込めることのできなかった聖騎士にも批判の矛先が向けられるのは間違いない。
だが、どれだけ疑われても、ルヴィスは犯人ではないのだ。感情的な問題はともかく、このままそれを前提に事を進めると、深刻な事態になりかねない。
「……アースガルド全体が不安に陥っていることは知っている。だが、外野の無責任な意見を積極的に現場に持ち込むのはどうかと思うがな? お前の職務は奴らの不安を代弁することではなく、一刻も早く事件の真犯人を突き止めることだろう?」
すると、グラニは片眉を上げ、わざとらしく尋ね返してくる。
「つまり、真犯人は吸血鬼王ではなく、他にいると?」
「最初からそう言ってるだろ、しつけえな」
「しかし、確たる証拠がなければ、なかなか信用を得るのは難しいと思いますがねえ?」
尚もしつこく食い下がるグラニを牽制したのは、フィーネの冷然とした声だった。
「証拠ならあるわ」
「フィーネ……!」
頼もしい助っ人に、ユナは僅かに顔を綻ばせる。
一方、フィーネは一枚の紙を取り出し、グラニに手渡した。そこには、何やら細かい字で数字がびっしり書き込まれている。
「吸血鬼にとって、人間の血はただの栄養源ではない……魔力の源なの。もし吸血鬼王が人の血を吸ったんだとすれば、血中の魔力濃度に著しい上昇がみられるはず。でも、先日、紋章院で行った採血で、そのような現象は見られなかった。むしろ、魔力濃度は低下していたくらいなのよ」
どうやらグラニに手渡された紙には、その採血のデータが数値化し、書き込まれているらしかった。魔力濃度を表す数字の部分が、赤い丸で囲ってある。
「そういや、昨日、紋章院で血を抜かれたっけな」
ルヴィスはそう呟いた。
あの時はモルモット扱いしやがって、と不愉快に思ったが、こういった時のために必要だったのだ。
「……犯行パターンが全く同じである事、いずれも王都という限られた場所で起こっている事から、二つの事件は同一犯の可能性が高い。でも、少なくとも血液検査の結果を鑑みれば、吸血鬼王が一件目の犯人である可能性は殆どない……だったら、二件目の犯人である可能性も低くなるのではないかしら。……少なくとも、私はそう見ているけれど?」
フィーネは自信たっぷりに自説を展開する。プライドの高い彼女のことだ。ルヴィスを庇おうという訳ではなく、単にガラール紋章院での研究成果の偉大さを知らしめようというだけなのだろうが、それでもルヴィスにとっては十分な援護射撃だった。
ところが、グラニは鼻を鳴らしてそれを一蹴する。
「しかし、あくまでそれは個人的見解でしょう? その検査とやらが万能であるわけでもない。何より、それで納得する者がどれだけいるか。全くもって、甚だ疑問ですな?」
果たして、グラニの言う通りとなった。
事件発覚からほどなくして、ルヴィスたちは登城を命じられ、ヴァルハラ城へと向かった。いつもの大広間に足を踏み入れると、すでにそこにはミズガルズ王・ジークフリートと、大勢の貴族たちが待ち構えていた。
ジークフリートは相変わらず感情をあまり感じさせない、アイスブルーの瞳で、こちらを見下ろしている。
しかし、貴族たちはというと、恐れや反発、疑念といった、負の感情で満ちた視線を容赦なく浴びせかけた。そしてそれがほぼ全てルヴィス一人へと向けられているのだった。
一件目の事件が起きた時も、貴族たちのルヴィスへの風当たりは相当なものだったが、二件目が起きてしまったせいで、より過敏なものになっている。
その点では、確かにグラニの言うことが正しいと、認めざるを得なかった。
「……二人目の犠牲者が出てしまったそうだね」
「しかも、犯人はまた人型吸血鬼のようですな」
ジークフリートは悩ましげにため息をつくと、ラーズグリーズも神妙な面持ちで相槌を打つ。
ルヴィスには、その様子はいかにも演技臭く思えたが、臣下である貴族たちには慈悲深い王が犠牲となった民に憐れみを寄せているように見えたのだろう。同意するように騒めいている。
ところが、その沈痛な雰囲気をぶち壊す者が現れた。ディートルト候――カーハインツだ。
「我が王に申し上げます‼」
声高らかに進言するカーハインツに、ジークフリートは物憂げな視線を向ける。
「何だい、ディートルト侯爵?」
「三度目の悲劇が訪れる前に、そこの汚らわしい吸血鬼を、一刻も早く王都から追放すべきです‼」
ルヴィスに向かってびしりと人差し指を突き付け、喚き立てるカーハインツ。もはやルヴィスが犯人であることに疑いの余地はないとでも考えているのだろう。自信に満ち溢れたその言動に、ルヴィスはつい悪態をつく。
「あのオッサン……この間も俺のことが気に食わないと騒いでいたな」
すると、慌ててユナが耳元で囁いた。
「言葉を慎め。カーハインツ=フォン=ディートル様は侯爵であらせられるのだぞ!」
「彼は王都の治安を預かる内務大臣ですもの。本来は率先してこの件に当たるべき立場にあるのに、王は聖騎士ヴァルキリーと吸血鬼王に捜査権をお与えになった。内心で面白くないと思っているのは間違いないでしょうね」
フィーネは心底どうでもいいといった様子で、解説を加える。
要するに、カーハインツがルヴィスを糾弾しているのは吸血鬼であるという理由だけでなく、ジークフリートに『特別扱い』されていることに対するやっかみも含まれているということだろう。
ルヴィスはむっと唇を引き結んだ。結局、事の原因はジークフリートにあるのだと思うと、余計に腹立たしくなってくる。
そして当のジークフリートは、興をそそられたのか、どこか楽しそうに問いかけた。
「……しかしディートルト侯爵。ルヴィスが犯人だという確たる証拠は、まだ出ていない筈だけど?」
「恐れながら、王は少々、吸血鬼王に対して過剰に信頼を寄せすぎているのではありませんか⁉ 奴が《五十年前の劫火》を引き起こした張本人であることをお忘れか!」
カーハインツが猛々しく声を張り上げてそう主張すると、他の貴族たちも次々とそれに賛同を始める。
「確かに……犯人が、人型吸血鬼である可能性が高いのなら、目の前にいる吸血鬼王が最も疑わしい存在ではないか!」
「王は何故、そのような奴を野放しにされるのだ……?」
「そもそも、人類の敵である吸血鬼が、王城を我が物顔で出入りすること自体、おかしな話ではないか」
ざわめく貴族たちの会話を耳にし、宰相のラーズグリーズは色をなした。
「言葉を慎まれよ、ディートルト候! それ以上の発言は、越権行為であるぞ‼」
しかし、カーハインツは懲りた様子がない。
「はっ……これは、申し訳ありませぬ。しかし王よ、どうかお聞き頂きたい! このような事件が起こり、市井の者たちも随分、心穏やかならぬ日々を過ごしていると聞き及んでおります。これ以上吸血鬼王を野放しにすれば、王権に傷がつくやもしれませぬ!」
表向きは従うと見せかけ、したたかに自らの主張を繰り返すカーハインツ。
他の貴族たちも完全にカーハインツのペースに乗せられていることが、表情から窺える。
ルヴィスに向けられた視線がより刺々しくなったのを察し、ユナは声を荒げた。




