第9話 悪夢の夜
「こ……これは……⁉」
「すごいですわ……美味しそうですの!」
ユナとレーヴァテインは、それぞれ感嘆の声を上げる。
「いや、実際、味も絶品だぜ」
早速シチューを口に運んだルヴィスも、思わず唸った。三十分という短い時間だったが、肉の下処理も完璧で、しっかりと煮込まれている。塩味や香草のバランスも丁度いい。
「あ……ありがとう……」
リーゼロッテは、褒められて嬉しかったのか、仄かに顔を赤らめている。あくまで喜びを前面に出さないところが彼女らしい。一方のユナは、感動と悔しさの入り混じった何とも言えない表情で、プルプルと震えていた。
「敗北だ……完全なる敗北だ!」
「まあ、あれだ。次があるだろ、次が」
ただ、次も焦がす公算が大だろうけどな――と密かに胸の内で呟いたが、それは口に出さないでおく。しかしそれは本人も自覚するところだったのか、ユナは激しく頭を振った。
「慰めは無用だ! どれだけ次があろうとも、これだけのクオリティを編み出すことは、私にはできぬ……‼」
「あなたは武器を振り回していればいいですの!」
レーヴァテインはつんと澄まして、スプーンでシチューを掬い、それを口に運ぶ。ユナの失敗料理につき合わされた事を、よほど根に持っているようだ。
「くっ……無念! しかし、本当に美味だな……‼」
ユナは落ち込んだり感心したりと、忙しくしている。やがて口に運んだシチューの肉をむぐむぐと咀嚼し飲み込むと、リーゼロッテに向かって疑問を発した。
「リーゼロッテと言ったな。このような料理、一体どこで覚えたのだ?」
「……好きで覚えたわけじゃないわ。ただ……うまくできないと、鞭で打たれるから……」
「リーゼロッテ……」
それが何を指しているか、ルヴィスはすぐに見当がついた。現在、奴隷の使役は禁じられているが、ムスペルヘイム領や二ヴルヘイム領などの辺境の一部では、その悪習が未だに続いているという。
「鞭打ちだと……⁉ それでは、まるで奴隷扱いではないか‼」
ユナは眉根を寄せ、激怒した。
「両親を早くに無くして、他に身寄りもなかったら……それしか生きる術がなかったの」
リーゼロッテは紫の両目を伏せる。ルヴィスから見ても、その姿は痛々しい。ユナはリーゼロッテを気遣うように声をかける。
「そうか……苦労したのだな。案ずるな。アースガルドでは奴隷制は厳しく禁じられている。そなたが安心して暮らしていけるよう、取り計らってみよう」
リーゼロッテは弾かれたように顔を上げた。ユナの言葉が完全に想定外で驚いたのだろう。ルヴィスも意外に思って口を開いた。
「どうしたんだ? いつもは異種族の不法占拠は許せないと喚いてるくせによ」
すると、ユナはムッと顔をしかめて反論する。
「人道上の保護は別だ! 下町の連中の中には、最初から犯罪目的で王都に侵入する者も多い。ついこの間も、ドワーフで結成された強盗組織を検挙したばかりだ」
彼女の言うことも一理ある。アースガルドは様々な種族が犇めくようにして暮らしている。特に下町は人口密度も異常に高く、犯罪の温床になりやすい。アースガルドの治安を担う聖騎士ヴァルキリーが神経を尖らせるのも無理からぬことであった。
「……だが、リーゼロッテのような迫害された異種族は我々も積極的に受け入れている。ジークフリート王が即位されてからは、特にな。申請すれば、アースガルドの永住権も手に入れられるかもしれぬ」
ユナはリーゼロッテに微笑んだ。
ジークフリートがそういった政策を推進しているのはルヴィスも知っていた。
だがそれは、勿論、ジークフリートが迫害された異種族に対して慈悲の心を持ち合わせているからではない。
前王であるジークムントはそういったことに無頓着で、むしろ異種族など迫害されて当然といった思想の持ち主だった。ジークフリートは単にその真逆の政策をとることで、民衆の心証を良くしようとしているに過ぎない。
だがそれでも、リーゼロッテにとっては貴重な追い風であるようだった。
「本当に……?」
リーゼロッテは信じられない、と、口元を両手で覆った。それを見て、ルヴィスの顔も自然と綻ぶ。
「良かったな」
「……ええ。まるで、夢みたい」
リーゼロッテは表情の乏しいたちであるようだが、それでも目を輝かせて感激しているのが分かった。ユナの言葉がそれほど嬉しかったのだろう。涙を流さんばかりに喜ぶリーゼロッテの姿は、裏を返せば彼女のこれまでの人生がいかに苛烈であったかを表しているような気がした。
(俺たちがそばにいて、守ってやればいい)
不器用なところもあるリーゼロッテだが、こういった素直な反応を目にすると、無性に庇ってやりたいと思わせられる。
それにユナも、異種族すべてに手厳しいわけでない。もともと、彼女自身がフェンリル族なのだ。リーゼロッテのような弱い立場にある異種族に対しては、むしろ普通の人間より情けが深い。彼女の口利きがあれば、リーゼロッテも王都でそれ相応の生活ができるようになるだろう。
それからユナは、様々な事をリーゼロッテに話した。自らの生い立ちや故郷の想いで、アースガルドでの、聖騎士としての任務に励む日々の事。リーゼロッテは相変わらず、自分の事はあまり話さなかったが、熱心にユナの話に耳を傾けていた。
そのようにして、ルヴィスたちは奇妙で和やかな夕食を過ごした。
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その日の夜、ルヴィスは夢を見た。
じっとりとした、湿った空気。黴と汗の入り混じった、息の詰まりそうな臭気。
石造りの狭い部屋を照らすのは、溶けかかった蝋燭の火だけだ。そのせいか、圧迫感すら感じる濃い闇が、すぐ足元まで迫っている。
どんなに忘れようとも、記憶の中から消え去ることはない。そこはアースガルドの真下にある地下牢の中だった。ジークムントに閉じ込められ、五十年近くを過ごした、地獄のような檻の中。
ルヴィスはその中に再び監禁されているのだった。
「ここは……? 俺は地上に出られた筈じゃ……⁉」
ルヴィスは身じろぎをしようとして、首と両の手足にはめられた大振りの枷に気づく。その枷にはそれぞれ太い鎖が二重に繋がれていて、その先端はそれぞれ地下牢の壁に打ち付けられていた。身動きをすると、それに合わせて鎖がじゃらりと耳障りな音を立てる。
「な、何だこれは⁉ くそっ!」
枷を鎖ごと引き千切ろうとするが、鋼鉄の拘束具はびくともしない。次に魔術式を浮かべるが、地下牢全体に何らかの魔術的措置が施してあるのか、やはり何の変化も現れなかった。
「なぜ外れない? 一体、何がどうなって……!」
ルヴィスは徐々に焦り始める。これは夢だ、何かの間違いに決まっている――そう自分に言い聞かせるが、過去が洪水のように溢れだし、理性を押し流していく。
「くそ……!」
心臓の鼓動が早くなり、呼吸も浅くなっている。ルヴィスは自分が動揺していることをはっきりと悟った。ただ、自覚はあるものの、それをどうすることもできない。
早く――一刻も早く、ここを出なければ。正気を保ち続けられる自信がない。
すると、牢を仕切る鉄柵の向こう、その闇の中から、ぬう、と這い出るように人影が現れた。ルヴィスは目を見開く。この世で最も憎い人間。それが鉄柵の向こうに立っていた。
「ふふふ……良いザマだな、ルヴィス! いや、ヴィルヘルム=シグムントと呼ぶべきか?」
「お……お前は……ジークムント‼」
前王・ジークムントは、ルヴィスの記憶の中にある姿のまま、そこに立っていた。
黄金を思わせる鮮やかな金髪に、深い湖の底のような色をした瞳。その顔立ちは、親子というだけあって、ジークフリートとよく似ている。
だが唯一違うのは、ジークフリートが氷のような冷ややかな目つきをしているのに対し、ジークムントはギラついた獰猛な獣のような目をしているというところだ。
ジークムントはルヴィスを見下ろし、にい、と口の端を吊り上げた。
「地上の空気を吸って浮かれておるようだな、ヴィルヘルム。己が薄汚い吸血鬼だということを忘れたか?」
「黙れ! この亡霊め……お前は死んだはずだ! 今すぐ失せろ‼」
ルヴィスはジークムントを睨み、そう叫んだ。しかし、ジークムントは何か珍しい獣でも見物するかのような目でルヴィスを見、くっ、と喉の奥を鳴らす。
「ふふふ……はははははは‼」
哄笑が牢の中に響き渡った。ルヴィスはかっと頭に血が上る。
「何が可笑しい⁉」
「これが笑わずにいられるか! 貴様、自分がどういう状況にあるのかわかっているのだろうな⁉」
「何……?」
ジークムントは怪訝な表情をするルヴィスに顔を寄せた。そして、悪意に満ちた目を細め、ねっとりと囁いた。
「……血が欲しいか、ヴィルヘルム?」
「……‼」
ルヴィスはぎくりと顔を強張らせる。血に飢えた今のルヴィスにとって、それは悪魔の囁きに等しかった。ジークムントはそれを見透かしたかのように、にやりと下卑た笑いを浮かべる。
「ふふ……図星か。やはりな。他の誰の目を誤魔化すことができても、この儂の目は誤魔化せんぞ! どんなに人の振りをしても、お前の本性は薄汚い吸血鬼……どうせ、人間の血を吸うことしか考えてはおらんのだ‼」
「ち、違う!」
「何が違う? 本当はあのユナとかいう娘の血が啜りたくて堪らんのだろう? 甘かったものなあ、瑞々しい香り、舌に絡みつくような濃厚さ……忘れられる筈がないものなあ‼」
その瞬間、ルヴィスの脳裏に王墓での出来事が甦ってくる。重ねられたユナの唇、その柔らかさ。そして、果実酒のような芳醇な香りと、口どけの良い甘さを伴った、彼女の―――
そこまで思い出し、ルヴィスは慌てて頭の中からその記憶を追い払う。
「俺はそんなことを考えてはいない! あいつは……ユナは俺にとって、大切な存在なんだ‼」
「いいや、だからこそ、だろう? ……ん? 認めてしまえ、ヴィルヘルムよ。大切な存在だからこそ、首筋を舐め、その牙でずたずたに引き裂きたいのであろう? そしてその手で滅茶苦茶にしてしまいたいのであろうよ……‼」
ジークムントは、くははははは、と顔を歪めて嘲笑を挙げた。その両目はルヴィスに対する侮蔑に満ちている。今すぐにでも黙らせてやりたいが、手足は枷で拘束され、血戒魔術も使えない。為す術もない状況に、打ちのめされそうになる。
「くっ……」
ルヴィスは歯軋りをし、ジークムントを睨みつけた。ジークムントは、相変わらず虫けらでも眺めるかのようにルヴィスを見下ろしている。
俺をそんな目で見るな――そう叫ぼうと口を開いた時だった。
次の瞬間、胸のあたりにドスンと、鎚で打ち抜かれたような強い衝撃を感じる。
「ぐっ……う……!」
思わず体を折り、心臓部を抑えた。衝撃はすぐに激烈な痛みとなって、体や意識を苛んでいく。ルヴィスは牢の床を激しく搔き毟った。
爪が割れ、指先から血が滲む。しかし、衝動と苦痛は止むことがない。
口元を抑え、獣のように呻く。指の間から、夥しい唾液が流れる。
(これは……‼)
その症状は、毎夜襲われる吸血衝動に間違いなかった。何故、よりにもよってこんな時に。
ジークムントに己の弱みを晒すなど、歯噛みをするほど悔しかったが、臓腑を襲う激痛は一向に収まる気配がない。視界が霞み、意識も朦朧としてくる。
しかし、途切れかけた意識は再び強引に現実へと引き戻された。いつの間にか、鉄柵の向こうにいたはずのジークムントが牢の中に入り、ルヴィスの頭を踏みにじっていたのだ。ジークムントはルヴィスを踏みつける足に力を籠め、更に嘲弄する。
「ほうれ、みろ。それがお前の本当の姿なのだ。飢えた獣のように地を這いずり回り、ただひたすら、人の血で腹を満たすことを夢想する。それ、お前の足元で蠢いている蛭と同じだ。何とおぞましい事よのう?」
「ぐ……ううぅ……っ‼」
ルヴィスは両腕を地につき、四つ這いになって、ジークムントに抗おうとする。しかし、吸血衝動による苦痛のせいで、体に力が入らない。
「消えろ……亡霊め、消えろ、消えろ‼」
そう念じるが、ジークムントは変わらずにルヴィスに蔑みの目を向ける。
「無駄だ、ヴィルヘルム……お前は決して、儂からは逃れられぬ! 何度でも地獄を味わわせてやるぞ! お前がのた打ち回って苦しむ姿は、これ以上ない愉悦だからなあ‼」
ルヴィスはぐっと唇を嚙み締めた。ジークムントはルヴィスを追い詰めて愉しんでいるのだ。ルヴィスの手足や首に枷を嵌め、狭い地下牢に幽閉し、その無様な姿を眺めるのが愉快でならないのだ。そして亡霊となっても尚、ルヴィスを苦しめ続ける。
吸血衝動に喘ぐ自分は、一体どれほどジークムントを喜ばせているのだろう。そう考えると、もはや我慢の限界だった。ルヴィスはとうとうジークムントに向かって吠えた。
「黙れ、ジークムント! お前だけは許さない! この手でズタズタに引き裂いてやる‼」
「はははははは‼ 憎め、憎め! 儂を忘れるなど、絶対に許さん‼ お前は儂を憎み、その亡霊を恐れ、脅えて生き続けるのだ! ……死ぬまで永久に、な‼」
ジークムントは高らかに嗤う。それはまるで、呪いのようだった。逃れようとも、決して逃れられない、忌まわしい呪詛。
この強欲な前王は、死んでも尚しつこくルヴィスに付きまとい、隙あらば絶望の淵へと引き摺り込もうとしている。しかもそれは恨みや憎しみのためではない。ただ自らの愉しみの為、それだけの為にルヴィスに苦痛を与え続ける。そして、ルヴィスは永久にそれから逃れることはできないのだ。
ルヴィスは必死で、両手で耳を塞ぎ、目を閉じた。まるで、ジークムントの亡霊から逃れようとするかのように。だが、どんなに努力しても、ジークムントの哄笑が追いかけてくる。
誰か……誰かあいつを黙らせてくれ―――――‼
そして、次の瞬間。
「―――……はっ……‼」
目を覚ますと、そこは家の二階にある自室のベッドの上だった。ルヴィスはベッドの上に跳ね起きる。肩で息をし、不快な汗がぐっしょりと全身を覆っている。
「な……何だ、夢か……」
どうにも生々しく、不快な夢だった。
地下牢の黴臭い空気。ジークムントの耳障りな笑い声。
全てがリアルで、まるで本当に再び幽閉されたのかと思うほどだった。
現に、心臓は未だ早鐘を打っている。ルヴィスは倦怠感を感じつつ、再びベッドの上に仰向けに寝転がった。すると、部屋の隅で剣の姿をとっていたレーヴァテインが、白光とともに人型に変化する。
「主様、大丈夫ですの? うなされていたようですけれど……」
「ああ、何でもな……」
しかし、その時。ルヴィスの体はベッドの上で大きく跳ねた。
喉の奥に湧き上がる強烈な渇き。せり上がってきた胃液と唾液が一緒になり、口の中に溢れ返る。ルヴィスは思わず、寝具の上で丸まった。
「あぐっ……‼」
どうやら、吸血衝動は夢ではなかったらしい。しかも、火山の爆発のように襲い来るそれは、夢の中のものよりずっと強く激しい。食欲と渇きが溶岩のように押し寄せ、噴煙を上げながら全てを焼き焦がしていく。少しでも気を抜くと、正気を失いそうになるほどだ。
このまま理性の糸が切れたなら、一体どうなるのか。考えるだけで背筋が寒くなる。己が何をしでかすのか、まったく自信がない。
「主様……‼」
「レーヴ、部屋から出てろ!」
今の自分には、誰も近づけたくなかった。レーヴァテインに、鋭い声で命令を下す。しかし、忠実な眷属であるレーヴァテインは、ルヴィスの身を案じ、なかなか出ていこうとしない。
「でも……!」
「いいから、出てろ‼」
ひと際、強い衝動が襲ってきて、ルヴィスは喉の奥で呻り声をあげる。
レーヴァテインは泣きそうな表情で口を開きかけた。だが、そのさくらんぼのような唇が言葉を紡ぎだすことはなかった。
かちゃりと小さなドアの開閉音がし、レーヴァテインはひっそりと部屋を後にした。




