第1話 仮初めの平和
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心地良い風が、頬を凪いでいく。
王都・アースガルドは日を増すごとに気温が上昇していた。
上空を見やると、深い紺碧色の空には、真っ白な雲が点在している。それとまるで張り合うかのように地上では緑が勢いよく葉を伸ばしていた。全てが鮮やかな色彩を放っている。
アースガルドはもう、すっかり夏の装いだ。
ルヴィス=レギンレイヴはその王都を隅々まで見渡せる位置にいた。
黒い髪に、吊り上がり気味の真紅の瞳。身に着けているものは髪の色に合わせたのか、シャツからパンツ、ジャケットに至るまで悉く黒だ。
彼の周囲には何もない。壁も、天井も、床すらも無かった。ルヴィスは風船のように、ぽっかりと上空に浮かんでいるのだ。
ルヴィスの周囲には光る古代文字――魔術式が点滅している。それが空中浮遊などという、通常の物理法則ではあり得ない事態を可能にしているのだ。
だが、当のルヴィスには、そんな大層な事をしているという感覚はない。ルヴィスにとって魔術式を操ることは、息をするのと同じくらい自然な事だからだ。
それよりは、こうやって自由に外で過ごせることの方が、何倍も貴重だった。二十年間、ヴァルハラ城の地下に繋がれて過ごしたことを考えると、こうやって思うがままに行動できることは、まるで奇跡のようだった。ルヴィスは熱気を帯びた真夏の風を胸いっぱいに吸い込む。
「……いい風だ」
『はいですの、主様』
ルヴィスの手に握られた、銀色の刀剣がそう返事を返した。ルヴィスの眷属、レーヴァテインだ。
銀色の刀身は美しい曲線を描き、真紅のラインが鮮やかに刻まれていた。彼女は人の姿をとることもできる。しかし今は、刀剣として、ルヴィスの手の中に納まっていた。
二人の眼下にはハグバルド地区の街並みが広がっている。アースガルドの城下町の中でも、高級住宅街として知られている区画だった。比較的、身分の高い者の屋敷が多く、伯爵・侯爵といった貴族の邸宅が連なっている。
『でも……主様、そろそろですの』
上空で、上機嫌に空中浮遊するルヴィスの邪魔をすまいと、レーヴァテインは控えめに語りかける。ルヴィスはそれに対し、にやりと頬を吊り上げた。
「そうだな。……行くぞ、レーヴ!」
ルヴィスは真紅の瞳を煌めかせ、周囲に魔術式を浮かべる。そして次の瞬間、ハグバルド地区の街並みに向かって急降下を始める。
地上では、聖騎士ヴァルキリーが吸血鬼と戦っていた。
聖騎士ヴァルキリーは、ミズガルズ王の親衛部隊だ。ミスリル・メイルでできた銀色の甲冑は、彼らとアースガルドの権威を表すに余りある。
ただ、ルヴィスの目には、彼らの動きはどうも少々頼り無げに見えるのだが。
副騎士団長はグラニという人族の男だ。飄々とした食えぬ男で、ルヴィスは未だにグラニの真意を掴めぬことがある。
一方、騎士団長を務めるのは銀髪のフェンリル族、ユナハイム=ブリュンヒルデだ。
フェンリル族の特徴である、イヌ科の動物のような三角形の獣耳が、彼女の頭部で勢いよく跳ねる。
出会った時は蛇蝎のごとくルヴィスを嫌っていた彼女であったが、ルヴィスの事を知るにつけ、徐々に打ち解けてきた。責任感の強い彼女は、凛とした表情で、率先し吸血鬼に対峙している。
対する吸血鬼は、ウミウシのような、軟体生物系の低級の吸血鬼だった。鮮やかなコバルトブルーの表皮には点々と赤い斑点が浮かんでおり、時おり鮮やかに明滅している。
動き自体も緩慢で、さして手強い相手でもない。
だが、大きさが半端ではなく、馬車ほどもある。
聖騎士ヴァルキリーはそんな巨大な相手に、明らかに苦戦していた。
「大した相手ではない! 落ち着いて当たれば必ず勝てる! かかれ‼」
ユナの号令と共に、整然と動き始める聖騎士ヴァルキリー。
苦戦しているとはいえ、当初の頃と比べると、かなり動きが洗練されてきている。毎日の厳しい鍛錬の成果だろう。
この世界には、吸血鬼という魔物が存在する。
人の血を啜るその化け物たちは形状も様々で、ミジンコのような単純な構造の生物から人型をしたものまでいる。
一般に、王権が弱体化し、世が乱れると人を襲う吸血鬼の数が増えると言われている。それは、王の持つ神聖魔術が吸血鬼の侵攻を防いでいるからだ。
まあとにかく、このまま順調にいけば、聖騎士の奴らでもウミウシ型の吸血鬼を倒すくらいのことはできるだろう――ルヴィスはそう楽観していたのだが、思いがけない事が起こった。
ウミウシ型吸血鬼とは別の、二匹目の吸血鬼が姿を現したのだ。
「ギチギチギチ……‼」
新たに姿を現した二匹めの吸血鬼は、耳障りな羽音を立てる巨大なバッタのような姿をしていた。
上空から唐突に降り立ってきて、陣形を組んだ聖騎士ヴァルキリーの片翼に襲い掛かる。
そして顔の両端にある巨大な複眼が、キロキロと小刻みに動き、まるで獲物を物色するかの如く聖騎士たちを睨みつける。
「うわああああっ!」
「新手の吸血鬼だ‼」
経験の浅い聖騎士たちに、動揺が走った。それはウイルスのように、瞬く間に全体へと伝播していく。ユナは素早くそれを察知し、活を入れた。
「取り乱すな! 陣形を保て!」
それで聖騎士の半分ほどは我に返るが、残りの半分は恐怖から抜けきることが出来ない。
「し、しかし……!」
「ひいい、く……来るぞ‼」
聖騎士は、アースガルド軍の中でも、エリートが揃う。
しかし、それに実力が必ずしも伴うとは限らない。エリートといっても、その大半は、フォークより重いものは持ったことがないような貴族の子息たちだからだ。
昔はそうではなかったが、アースガルドに平和が訪れた三十年ほど前から、弱体化が目立つようになったという。
「やれやれ……不測の事態に弱いのは相変わらずですな」
グラニは半眼で肩を竦めた。ユナはそれを耳ざとく聞きつけ、眉を吊り上げる。
「なんだ、泣き言か?」
「まさか、貴女の前でそんな醜態を晒す度胸はありませんよ。ただ……事実の指摘をしたまでです」
飄々と答えるグラニ。慇懃無礼なのはいつものことだが、こんな時でもそのキャラクターを崩す気はないらしい。ユナは怒りを通り越し、苦笑していた。
「……それでも、少しずつ様になってきているではないか。最初は吸血鬼に近づくこともできなかったからな。あとはひたすら、実戦の経験を積むしかない」
プライドばかり高い貴族のぼんくらたちをしごくのは骨が折れるが、それでもそれを聖騎士として育て上げることが、ユナとグラニの仕事の一つだ。
ユナは騎士団に向かって声を張り上げた。
「あの虫型には私が当たる‼ みな、諦めるな‼」
すると、上空から炎の一閃が奔り、バッタ型の吸血鬼に直撃する。次の瞬間、バッタは一瞬で丸焼けとなった。
「ルヴィスか!」
声にどことなく歓喜を滲ませ、ユナは上空を振り仰ぐ。
「今日も絶好調ですな、吸血鬼王殿は」
グラニも上空を振り仰ぎ、腫れぼったい垂れ気味の目を、眩しそうに細める。
一方のヴァルキリーのへっぽこ騎士たちは、轟々と炎を噴き上げる吸血鬼を眼前にし、騒然となる。
「あれが血戒紋でない、真正の血戒魔術の威力か……!」
「さすがだな、吸血鬼王は」
「だが、所詮は吸血鬼……我々の敵だろう?」
「ホント……何で人間の味方をしてるんだろうな、あいつ?」
「いつか俺たち、あいつに食われるんじゃないか……?」
騎士たちがルヴィスに向ける感情は、羨望と嫉妬、恐怖、不信、と様々だ。
だが、全体的には敵意や警戒心といったネガティブな感情が、ポジティブなそれを上回っている。王命だから渋々従っているが、ルヴィスの事を快く思っている者は殆どいないようだった。
ルヴィスは彼らの様々な思惑を含んだ視線を一斉に浴びつつ、焔から一泊遅れて、地上に着地する。
「相変わらず蚤の心臓だな、お前んとこの隊は」
ユナとグラニに対し、そう皮肉を飛ばすと、グラニはしかめっ面で応戦してきた。
「余計なことはしないでいただきたいものですな、吸血鬼王。これは我々の職務ですぞ」
ルヴィスはニヤリと凶悪に笑う。
「そりゃ、悪いことをしたな。だが、お前らの経験値アップを待ってたら、アースガルドがいくつあっても足りはしねーぞ」
「言ってくれるな、ルヴィス。必要な事だ」
危なっかしいからといって、いつまでも手助けをしていたら実力も培われない。辛抱強く待つことも時には必要だ――ユナにそう諭され、ルヴィスは「へいへい」と肩を竦める。
「吸血鬼はまだ一体残っている! 気を抜くな‼」
ユナは、騎士団に向かって号令をかける。そして、彼女の特殊武器、グレイプニルを閃かせた。
グレイプニルは黒い金属でできた鞭状の武器だ。いくつもの刃が連なって構成されており、それをばらばらに分解して、短剣として用いることも可能だった。
ユナはそれをまるで己の手足のように器用に扱う。ウミウシ型の吸血鬼に向かってグレイプニル放つと、そのグニャグニャとした体に巻き付けて、動きを封じてしまう。
「グモオオオオオオ‼」
ウミウシ型の吸血鬼は、まさしく牛のような雄たけびを上げ、グレイプニルから逃れようと身を捩る。しかし、ユナの放った鞭は、ますます吸血鬼を縛り上げていく。
吸血鬼は次に血戒魔術を放たんとするが、それも未遂に終わってしまった。ユナのグレイプニルは、魔術を吸い取る付属効果があるのだ。
体の自由と血戒魔術、その両方を奪われ、ウミウシ型の吸血鬼は為す術もなくのた打ち回るしかなかった。
「かかれえぇぇ‼」
グラニは大声で騎士団に命令を下す。そして自らも騎士団を引き連れ、ウミウシ型の吸血鬼を排除せんと突撃していく。
小一時間後、聖騎士ヴァルキリーはようやくウミウシにとどめを刺し、事態は何とか収束したのだった。
吸血鬼の討伐が終わり、閑静な高級住宅地に安堵の空気が流れる。
ユナやグラニも緊張を解き、大きく息を吐いた。
聖騎士の役目はアースガルドの守護だ。どこであろうと、街中に侵入した吸血鬼を排除するだけ――建前上は確かにそうだが、ハグバルド地区に有力者や権力者の家が犇めいていることを考えると、やはり重圧を感じずにはいられないのだろう。
そんな中、ルヴィスはユナに近づいていって、その背中を軽く叩いた。
「よう、お疲れさん、騎士団長さんよ」
「ルヴィスか……かなり手こずってしまったな。この程度の敵で……」
ユナは唇をかむ。使命感の強い彼女の事だ。なかなか成長しない聖騎士に、責任を感じているのだろう。ルヴィスはそんな彼女を励ますのだった。
「焦んなよ。お前はよくやってる。最初のころに比べると、随分マシになってきたぞ」
「そうか……お前にそう言われると、少し気が楽になるな」
それはおそらく、ヴィルヘルム=シグムントとしてのルヴィスに、という事だろう。
ルヴィスがかつてミズガルズを救った英雄、ヴィルヘルム=シグムントだという事を知る者は殆どいない。
王都を襲った《五十年前の劫火》――その際に、聖騎士ヴァルキリーの騎士団長としてルヴィス=レギンレイヴと戦ったヴィルヘルム=シグムントは、ルヴィスの体より出でた魔術式によって、吸血鬼にされてしまったのだ。
その事実を知っているのは、聖騎士団長のユナと、ミズガルズ王ジークフリート、そしてガラール紋章院の院長であるフィーネだけだ。
「しかし……また吸血鬼か。ジークフリートが即位してずいぶん経つし、フレイアも退けたというのに、妙だな」
ルヴィスがごちると、ユナも同じ違和感を抱いていたのか、頷きを返してくる。
「確かに……ジークフリート王は神聖魔術が堪能でいらっしゃる。ユグドラシル結界も、お間の心臓の力を得て正常に作動している筈だ。全て上手くいっている筈なのに、吸血鬼はどこからか街に侵入している。……少し心配になるな」
このミズガルズという世界は、ユグドラシル結界という、巨大な結界で守られた世界だ。結界の外はヨトゥンヘイムと呼ばれ、虚無の広がる世界だと言われている。
その実態は定かではない。
ただ、ユグドラシル結界が崩壊するとラグナロクが訪れ、世界は終わるのだとエインヘリアルの歴史書には伝わっている。
ユグドラシル結界はこの世界の要だが、それを支えるものが二つある。
一つはヴァルハラ城の真下にある巨大王墓だ。歴代の王が祀られたその墓はそれ自体が結界を支える巨大な魔術装置なのだ。ルヴィスの心臓もまた、そこにある。
心臓と王墓は、今や完全に一体化していていて、切り離せない状態にあった。
もう一つはジークフリートの神聖魔術だ。前王のジークムントは魔術が使えないばかりに吸血鬼の侵攻を許し、五十年前に世界を滅ぼしかけた。その時に聖騎士ヴァルキリーの騎士団長、ヴィルヘルム=シグムントは吸血鬼となってしまう。
そしてジークムントに捕らえられ、心臓を奪われた挙句、まるで奴隷のように働かせられてきた。
この世界では、魔術を持たぬものが王になると、悲惨なことになる。前王の時代は、それを絵に描いた様な時代だった。
かろうじて平和が保たれたのは、ひとえに陰でルヴィスが一心に吸血鬼退治に従事したからだ。
しかし、現王のジークフリートは大変幸いなことに、神聖魔術に優れている。
王墓と神聖魔術、その二つの車輪が揃っているのに、未だに吸血鬼は街中に現れ、人々を襲っている。
数か月前、人型の吸血鬼、フレイアを下してからというものの、確かにあまりにも強大な吸血鬼は出現していない。
その為、かろうじて深刻な事態には至ってないが、不安は残る。
「まあ、取りあえず吸血鬼は排除したんだ。引き揚げるか」
不安は残るが、今すぐどうにかできる問題でもない。気を取り直し、ユナにそう声をかける。
すると、二人に向かって若い聖騎士が走り寄って来た。
くすんだこげ茶色の髪に、灰色の瞳。ひょろりとした、さえない感じの若者だ。
聖騎士のミスリル・メイルをぎこちなくガチャガチャといわせ、槍を重たそうに担いでいる。
ルヴィスは内心で思いきり突っ込んだ。何だろう、この全身から漂ってくる強烈な新人臭は。背丈、肉付き、ともに標準並みで、やはりこれといった特徴は無い。いかにも育ちのよさそうな瞳は、良く言えば素直そうで、悪く言えば覇気に欠ける。
「騎士団長!」
「ハイノ=ベルフェゴールか。どうした?」
ユナが問い質すと、騎士団長を前にしていたく緊張しているのか、ハイノは居心地悪そうに視線を彷徨わせる。
「それがその……不審者を発見しました!」
「不審者……?」
ルヴィスとユナは、互いに顔を見合わせる。吸血鬼を倒したばかりだというのに、不審者とは。
だが、アースガルドは先日、凶悪な人型吸血鬼の襲撃を受けたばかりだ。氏素性の怪しいものを放置しておくわけにはいかない。
おまけにここは貴族の邸宅外だ。適切に処置せねば、有力貴族たちが黙ってはいまい。
ルヴィスとユナが新人聖騎士・ハイノの後についていくと、路地の片隅に、黒いマントを羽織った小さな人影がうずくまっているのが見えた。
丁度、傍にとある貴族の邸宅があり、その勝手口へと続く階段の麓にしゃがみ込んでいる。そして、警戒した他の聖騎士が槍や剣を構え、それを囲っているのだった。
甲冑姿の聖騎士たちの間から、ボロボロの薄汚れたマントが見える。
確かに貴族の邸宅街であるハグバルド地区には、これ以上もなく不似合いな格好だった。
その人物は、こちらに背を向けていて、おまけにフード付きのマントで全身をすっぽり覆っているので、姿はよく分からない。
ただ、背格好から女性であるような気がした。
「あれか、その不審者ってのは」
ルヴィスとユナは眉をひそめる。その眼前で聖騎士たちが、マントの不審者に槍を突き付け、鋭く問い詰めた。
「怪しい奴め、何奴だ! こんなところで何をしている⁉」
「……そのマントを取れ!」
しかし、小さな人影は動かない。聖騎士たちの大声が聞こえていない筈はないだろうに、何の反応もない。
妙だと顔をしかめていたルヴィスは、はっと気づく。
「あいつ……負傷してんじゃねーか……?」
ルヴィスはそう呟くと、小さなマントの人物に向かって駆けだす。ユナもすぐに配下の聖騎士たちへと声を張り上げた。
「その者の素性を確認する! みな、武器を提げよ!」
命令を受け、聖騎士たちは一斉に武器を降ろす。ルヴィスはそれを掻き分けながら進んだ。その間も黒マントの人物を注視するが、やはりピクリとも動かない。
「おい、お前……大丈夫か? 怪我してんだろ!」
ルヴィスがその黒マントの肩を掴むと、その弾みではらりとマントのフードが落ちる。
中から覗いたのは十代ほどの、あどけない少女の顔だった。
陶器のように真っ白な肌に、対を為すかのような漆黒の長髪がはらりと流れ落ちる。細い鼻梁に、丸みを帯びた頬。熟れた果実のような、官能的な唇。着ている者は粗末だが、まるで人形のように美しい娘だった。
ルヴィスは息を詰め、その娘を見つめた。
何故だか、彼女から目を離すことが出来ない。
何か不思議な引力にぐいぐいと引っ張られていくようだった。姿形が整っているだけでなく、どこか神秘的な雰囲気を感じさせる娘だ。
真っ黒い髪は最上級の絹糸のような艶を帯び、僅かに見開かれた瞳の色は、アメジストのようだ。その髪と瞳の色の組み合わせに、ルヴィスはドキリと心臓を撥ねさせる。
「お前……ダークエルフか……⁉」




