第10話 敗北
「……あの頃、すでに《ルヴィス=レギンレイヴ》の肉体は器としての限界を迎えていました。彼が吸血鬼王となって二百年ほど。我々吸血鬼は人間よりは長命で肉体蘇生にも優れていますが、決して不死という訳ではないのです。
《ルヴィス=レギンレイヴ》は当然、新しい器を求めた筈。自らの心臓に宿った《エインへリアル》を継承させるために」
「………!」
ルヴィスの中で五十年前の事がまるで昨日の事の様に鮮明に蘇ってくる。
《ルヴィス=レギンレイヴ》の割れた眼球。
そこから這い出して来た、おぞましい魔術式の群れ。
全ての災厄の始まり。
「何の……話を、している……?」
地上で二人の会話を聞いていたユナは訝しむ。フレイアが何の話をしようとしているのか、理解が出来ない。
「ここで最初の話に戻ります。あなたのお名前の事ですよ」
フレイアの言葉にルヴィスはぎくりと体を強張らせた。
フレイアは更に眼光を強める。
「ルヴィス=レギンレイヴは私の知己でした。私は彼の事をよく知っているのですよ。あなたは確かによく似ていますが、声や性格がまるで違う。彼で無い事くらい分かります。
……私なりに推理してみたのですが、《五十年前の劫火》の折に《ルヴィス=レギンレイヴ》と戦った人間がいるそうですね。その者は人間の間では英雄として語り継がれているとか。
……あなたは『彼』なのではないですか?」
「くっ……!」
こいつは全て知っている――そう確信すると同時に、何故か視線は地上のユナに向いていた。罪悪感のようなものが胸中に広がり、そのことに激しく動揺する。
――何故だ。俺は何もしていない。
しかし、その思いに反し、視界は激しく揺らいだ。
ただ、一つ。ユナには知られたくない、と思った。知れば、純粋な彼女はひどく落胆し、失望するだろう。それは何としても避けなければならない気がした。
しかしその間もフレイアの形の良い唇が動きを止めることは無い。
「……そうでしょう? 《ヴィルヘルム=シグムント》さん」
静寂がその場を支配した。
まるで時が止まったかのように、誰もがその場に硬直していた。
ユナは最初、きょとんとしていた。フレイアの言葉の意味が分からなかったのだろう。しかし徐々に驚愕に目を見開いていく。
「な……に……⁉」
「だ……黙れ‼」
ルヴィスは痛む心臓を押さえながら、朦朧とした意識でフレイアに斬りかかる。フレイアはやれやれと肩を竦めた。
「答えてはもらえませんか。……それならこちらも実力行使しかありませんね」
美しく端正な顔に、にたりと凶悪な笑みが浮かんだ。瞳孔が開き、笑んだ口元が耳まで裂ける。
それは女が初めて本性をのぞかせた瞬間だった。
フレイアは手にしていたギンヌンガガプ――斧槍を更に上空に放る。斧槍は上空でぴたりと静止した。
次いでフレイアは魔術式を発動。次の瞬間、槍は三倍ほどの大きさに巨大化した。宙に浮いた巨大な斧槍の鉾先は、まるで死刑を宣告する処刑器具の様に、冷酷な光を放っている。
そして。
大気を叩きつけるような激しい破裂音と共に、それは隕石のような速さで飛行を開始した。
ルヴィスには全てが見えていた。斧槍が飛んでくるところも、それが己に突き刺さるであろうことも。
しかし、何も抵抗する手段が無かった。魔力は尽き、体を動かすことさえ敵わない。
行動限界はとうに越えていた。
それでも諦めてはいなかった。
何か、何か出来ることは無いのか。必死で頭を巡らせる。
しかし、容赦なくギンヌンガガプの槍はルヴィスに喰らいつき、鳩尾に直撃した。
斧槍はそのまま速度を落とさずに飛行し、地面に突き刺さった。その衝撃で公園の地面を覆っていた、美しい幾何学模様の描かれたタイルが粉々になった。地に突き刺さってもギンヌンガガプはエネルギーを放出し続ける。斧槍を中心に大きく円を描く様に幾段も地面が抉れていった。
激しい地響きと共に粉塵が舞い上がる。
「ガアッ……‼」
『主様‼』
ルヴィスの口からごぼりと血が溢れ返った。地面に斜めに突き刺さった槍。ルヴィスの体はその真ん中の柄のあたりで、襤褸切れの様に引っ掛かっていた。
大きく仰け反ったまま、動かそうにも四肢が言う事を聞かない。頭部も手足もだらんと垂れ下がる。糸が切れた操り人形の様に無様な姿だった。
腹部から大量の血が流れ出している。それは槍を伝って地面に落ち、みるみる大きな血溜まりを作っていく。
痛覚が無い。意識も失いかけている。
希望など、何処にも無いようにも思える状況だ。
それでも何かしら抵抗しようと、僅かな力でレーヴァテインを握り締めた。この程度で諦めていたら、とっくにあの地下牢で正気を失っている。
「ルヴィス‼」
ユナはルヴィスに駆け寄ろうとするが、すぐに槍の側まで降下してきたフレイアに気づき、足を止めた。
フレイアが獲物を射るような目でユナを見つめている事に気づいたからだ。
「近づかないで。まだ、用は済んでいません」
「く……‼」
フレイアの視線は冷たく、ユナは蛇に睨まれた蛙の様にその場に動けなくなる。背負ったクルースニクの存在すら失念していた。
しかしフレイアはすぐにユナには興味を失くし、ルヴィスへと向き直る。そして、駄々っ子を諭すような口調で喋りはじめた。
「聞こえていますね、ヴィルヘルムさん? この際、今までのあなたの『奇行』には目を瞑ります。それよりはこれからの事です。
……あなたは吸血鬼です。ユグドラシルの意思に従い、この世界の《調停者》の一人としてシステムの一環になる。そうすべきなのです。……分かりますね?」
ルヴィスは何とか僅かに上体を起こしフレイアを見上げると、血だらけの口元に不敵な笑みを浮かべた。
「……知ったこっちゃねーよ、ブス。失せろ」
フレイアの顔に笑みが戻った。と言っても、どちらかというと苦笑に近かったが。口調も最初の軽いものに戻っていた。
「……そうですか。残念です。ところであなたは炎の魔術を得意としているようですね。他の魔術は使えないのですか~?」
「何……だ、と……?」
「私としては何でも良かったのですが……ほら。炎には氷、みたいなイメージがあるでしょ~? その方が断然盛り上がりますし~」
「何が……言いたい……?」
「……私も炎の魔術が使えるんですよ~。常々羨ましいと思っていたのです。《ルヴィス=レギンレイヴ》のように、人の歴史に名を残すことも悪くないと。
そう、例えば……《五十年前の劫火》のように」
フレイアの周囲に莫大な情報量を有した魔術式が浮かび始めた。
その密度にルヴィスは愕然とした。
一般的に血戒魔術は難易度の低いものほど魔術式も簡素になり、発動も早い。逆に大型の魔術や難易度の高い魔術は、魔術式の情報量も多く発動も遅くなる。
今、フレイアが構成しているレベルの魔術式はルヴィス自身、今まで一度しか見たことが無い。五十年前、《ルヴィス=レギンレイヴ》が操っていた魔術式だ。
苦々しい記憶が鮮明に甦って来る。
仲間を死なせ、王都を守れず、されるがままに吸血鬼となったあの日。
自分自身も、生きる意味も全てを失ったあの日が、また繰り返されようとしている。
全身を戦慄が貫いた。痛覚はとうに失われている筈なのに、背中に冷たいものが走る。
フレイアの魔術式は尚も不気味な増殖を続け、今や彼女の全身をすっぽりと覆うほどになっていた。
「レーヴ、ユナを守れ!」
ルヴィスは焦った声でレーヴァテインに命令した。剣の姿をしているので表情は分からないが、彼女が激しく戸惑うのが伝わってくる。
『で……でも、主様……!』
「いいから行け‼‼」
『は……はいですの!』
レーヴァテインはあくまで吸血鬼の眷属であり、決して所有者であるルヴィスの意に逆らうことは出来ない。それが例えどれだけ不本意な内容であっても。レーヴァテインはルヴィスの掌の中から瞬時にその姿を消した。
二人の会話を聞いていたフレイアは口元に手を添え、くすくすと笑いを洩らす。
「優しいんですね~。私としては、他人を気づかうよりあなた自身の安全を確保することをお勧めしますけど~~」
「うるせえんだよ‼」
言われるまでもなく、ルヴィスも周囲に魔術式を展開する。しかしそれは簡素な魔術障壁で、例えるなら大砲に鍋の蓋で抵抗するほどのものだった。自分でもいっそ無い方がマシなのではないかとすら思えてくる。
だが、それ以上のレベルの魔術を発動させる余力は微塵も残っていない。
その間もフレイアの魔術式は、容赦なく新たな情報を追加し続けていた。
そしてついに発動の時を迎える。
「……この程度で、死なないでくださいね」
思わず見惚れるの程の美しい笑顔を浮かべ、フレイアは蠱惑的に囁いた。
「この、クソアマ……!」
ルヴィスは激しく毒づいた。まるで全てを呑み込むかのような純白の閃光が視界を埋め尽くしていく。
そして、次の瞬間。
ハーナル公園は巨大な爆炎に包まれた。
一拍遅れて轟音が響き渡る。衝撃で大地が激しく振動した。
地表は激しく焼け爛れ、それを更に熱風が薙ぎ払っていく。巨大な炎の塊が公園を覆いつくし、周辺の民家の一部をも呑み込もうと、尚も激しく踊り狂う。
退避していた王都軍や聖騎士の一部が爆風に煽られ、吹き飛ばされた。兵士の悲鳴と怒号が飛び交う。
それらも巨大な大気の流れに、木の葉の様に呆気なく押し流されていく。
苛烈な炎の嵐が収まり、地に伏していたユナは恐るおそる目を開いた。
真っ先に目に入って来たのは、破壊し尽くされ、あちこちから黒煙が上がっている無惨なハーナル公園の姿だった。ベンチや街灯など、備品の一部は溶けかかっている。
死んだ、と思った。だが生きている。
すぐにユナはその理由が分かった。目の前に人型の姿になったレーヴァテインの後姿があったからだ。レーヴァテインは両手をかざし、障壁を発動してユナを守っていた。
「お、お前……何故……?」
ユナは慌てて起き上がる。それと同時に、レーヴァテインの障壁も消失した。
「あ、あなたの為じゃない……ですの……! 主様の……命令ですの………‼」
レーヴァテインは途切れ途切れにそう答えると、その場に力尽きたように倒れ込む。ユナは慌てて抱き留めた。少女はそのまま気を失う。おそらくユナを守るために力を酷使し、相当疲弊したのだろう。
このような幼子に――ユナは己の情けなさに唇を噛み締める。
「そうだ……ルヴィス……! ルヴィスはどこだ……⁉」
ユナはレーヴァテインをその場に寝かせ、周囲を見渡す。
ルヴィスが先ほどギンヌンガガプの槍に刺さっていた場所――そこは先ほどの爆炎で更に大きな半円状の穴が穿たれていた。煙と水蒸気が一緒になって、空高く吹き上がっている。
覗くと深さは数十メートルもあった。まるで火山の噴火口のようだ。
だが、どれだけ探してもギンヌンガガプの槍もフレイアの姿も見当たらない。目を凝らして、巨大な穴の底を覗き込む。
その中心に、ルヴィスはいた。
衣類は焼け焦げて殆ど原型を留めていない。皮膚は酷い火傷で膨れ上がり、体のあちこちが炭化している。もはや俯せなのか、仰向けなのかも分からなかった。
「ルヴィス……‼」
ユナはそのあまりにも酷い状態に、言葉を失い、立ち尽くしていた。
人間の肉体が、こうも無惨に破壊されることがあるのか。見たことはおろか、聞いたことすらない。いや、形が辛うじて残っているだけでも奇蹟なのだろう。本来ならば、瞬時に蒸発している。
息をすることすら忘れ、ただひたすら視線を注いだ。
背後では兵士や市民たちが徐々に公園に戻ってきていた。公園の惨状を目の当たりにした彼らの、驚きや怒り、悲しみの入り混じった声もユナにはどこか遠い出来事のように感じる。
フレイアが姿を現してから消すまでおよそ十分。
僅かそれだけの時間で日常が地獄と化した。
それはあまりにも非情な現実だった。
ハーナル公園での人型の吸血鬼の襲撃は、即座にヴァルハラ城にも伝わっていた。
多くの者達が足早に駆け回ったり、あちこちでひそひそと話し込んだりしている。平常時には静謐で厳粛な空気に包まれた城が、今は恐怖と不安に慄いているかのようだった。
ユナは王に謁見する為、ジークフリート王の私室へと向かっていた。傍らにはグラニも同行している。互いに無言だった。足取りが重い。
ルヴィスはあの後、王立ガラール紋章院の、治癒を専門とした紋章師達に運ばれていった。今頃は紋章院の集中治療室で治療を受けているだろう。紋章師達はルヴィスの無惨な姿を見て皆一様に青ざめ、狼狽した様子だった。
――助かるのだろうか。ユナはとてつもなく不安だった。
何も出来なかったという、責任感からくる罪悪感も相まって胸が激しく締め付けられた。しかしユナには為す術がない。フレイアが姿を現してからというもの、ユナは一貫して無力な傍観者だった。今はただ、祈るしかない。
王の私室ではジークフリート王と宰相のラーズグリーズが聖騎士の二人を待ち構えていた。すでにある程度の概要は掴んでいるらしく、その表情は険しかった。
「……では本当なのだね。ハーナル公園でルヴィス以外の人型の吸血鬼が出たのは」
王の言葉にグラニが答える。
「……はい。踊り子の姿をした、若い女でした」
「それでむざむざと侵攻を許したという事か! 何という事だ‼ この穀潰しども……何のための聖騎士だと思っている‼」
ラーズグリーズは仁王像の様な憤怒の形相で喚き散らす。
「は……申し訳ありません‼」
グラニは敬礼の姿勢で答えた。極力表情を変えないよう努めているのが分かる。
王は顔をしかめた。
「よしなさい、ラーズグリーズ。人型の吸血鬼が出たのなら、人間では到底太刀打ちできない。それは歴史書が示している事でもある」
「し……しかし、このままでは……!」
「分かっているよ。何らかの対策は必要だ。……例の書置きも新しいものが見つかったそうだね」
グラニは頷いた。
「《惨劇は繰り返されるだろう。二匹の狼は互いに争い、運命は堕落する。そしてラグナロクが訪れるだろう。》――吸血鬼王はそのように記してあると証言しました」
「……興味深いね。《エインへリアルの書》の第二百七十四編を思い出すよ」
「吸血鬼王は王政批判ではないか、と……」
グラニは声を落とし、付け加えるようにそう言った。
「なっ……口を慎め、無礼な! 王の御前であるぞ‼」
泡を食ったように宰相が怒鳴る。ラーズグリーズの顔色は赤を通り越してもはや赤黒く
なっていた。しかし、一方のジークフリートは冷静だった。
「良いんだよ。……おそらくその通りだろうからね。それより吸血鬼は再び攻撃してくると思うかい?」
「……分かりません。ただ、奴は吸血鬼王に執着し、それ以外の者には殆ど興味を示していませんでした。吸血鬼王が戦闘不能に陥った以上、当面は何もしてこない可能性が高いかと……」
グラニの言葉に、確かに、とユナも思い出す。
フレイアはあまり王都軍や聖騎士を直接攻撃してこなかった。それに彼女のユナに対するあの冷たい視線。まるで人間が毛虫を目にした時のような、軽蔑と嫌悪の籠った眼だった。
ルヴィス以外は眼中にもない。そう言わんばかりだった。
しかしそんな事は露ほども知らない宰相は、何を呑気な事を、と苛立ったようだった。
「そんな保証が何処にある⁉ 次はこのヴァルハラが狙われるやも知れんのだぞ‼」
「……城下および城内の警戒態勢を最大限まで引き上げます」
グラニはそう答えたが、それであのフレイアの侵攻が防げるとは到底思えなかった。とどのつまり、彼女に対して取れる対策は殆ど無い、と言うのが現状だ。
ジークフリートも溜め息をつく。
「そうだね……。当面は相手の出方を見るしかないね。……ご苦労だった。二人とも下がっていいよ。兵に見回りをさせるのもいいけど、今のうちにしっかり休息をとらせるように」
「はっ……失礼いたします‼」
再度敬礼し、グラニは退出しようとユナに目くばせをする。
「あ……あの……!」
その時、終始無言で俯いていたユナは初めて顔を上げた。
「何だい、ブリュンヒルデ騎士団長?」
王の目が、真正面からユナを捕らえた。
ユナはずっと考え込んでいた。真実を知りたかった。
ハーナル公園でフレイアが口にした言葉――ルヴィス=レギンレイヴがヴィルヘルム=シグムントと同一人物であるというのが本当なのかどうかを。
しかしジークフリートの色素の薄い瞳を見ているうちに、それは口に出してはいけないことではないかと気づいたのだった。これは公には秘匿されてきたことだ。自分やグラニすらその事実を知らされていなかったということが、何よりの証拠ではないか。
そもそもユナは聖騎士団長なのだ。王がルヴィスを《ルヴィス=レギンレイヴ》と呼ぶのなら、ユナもそれに倣わなければならない。騎士にとって王命は絶対だからだ。
そこに疑問を差し挟む事など、あってはならない。
「い……いえ……。何でもありません……」
結局ユナはそのまま口を閉じた。
「……そう?」
王もそれ以上追及してこなかった。
ラーズグリーズの胡散臭そうな視線を浴びながら、ユナとグラニは王の執務室を後にする。しかし、気分は落ち込むばかりだった。
胸に固いしこりの様なものが突き刺さり、じくじくと痛む。もやもやとし、気が晴れない。まるで自分の周りだけ、ぶ厚い霧に覆われてしまったかのようだ。
ユナが聖騎士になってから、その様な気持ちになったのは初めてだった。




