第一章【7】銀色の夢
運河の暴走が静まり、ルミエスタにはようやく夜のしじまが戻り始めていた。
しかし、ひとたび乱された町の空気が癒えるには時間が必要だろう。
崩れた石の欠片や濡れた土の匂いが、依然として微かな緊張をそこかしこに残していた。
澄んだ水音だけがいつもと変わらず、壊れた現実の上をやさしく流れていた。
その清らな囁きに呼応するように、精霊たちの淡い光が、ぽつり、ぽつりとルティエの明眸を彩ってゆく。
揺らめく小さな灯りは、まるで何事もなかったかのように、静かに彼女の周囲を巡った。
そして、その傍らを。ひときわ美しい光の繭がふうわりと漂った。
目を奪われずにはいられない、月光の雫を集めたかのようなやわらかな煌玉。
それは星空へ向かい、ゆっくりと、息を潜めるように昇っていく。
「……今の光は、いったい」
低く、深みのある声がルティエの耳に降りかかった。
そこで初めて、自分が誰の腕の中にいたのかを思い出す。
反射的に顔を上げれば、至近距離で交差するふたつの視線。
互いの瞳に、互いが映り合う。
時が止まったかと思われた瞬間。
…じりじりと競り上がる現実感に、ルティエは叫びそうになるのを寸前で堪えた。
「……~~っ!!?」
「おっと……」
慌てて身を引き距離を取ると、火照った両頬を無意識に押さえる。
(びっくりした、びっくりした…びっくりした!)
男性に抱きしめられるなんて、生まれて初めてだった。
真っ白な頭の中、ばくばくと全身に鳴り響く鼓動。
爆ぜる羞恥心をなけなしの理性で押し込め、ルティエはなんとか身なりを整える。
「……あのっ。危ないところを助けていただき、ありがとうございました。セレナード侯爵様……!」
小さく裾を摘み、ルティエは丁寧にカーテシーを行う。
少々ぎこちなくはあるが、その所作には不思議と品があった。
「ああ……いや、助けられたのはこちらの方だ。君は……」
アルジェントは冷静を装って応じたが、その声音には仄かな揺らぎがあった。
――少女が放った魔力。
精霊たちが静まりゆく気配。
そして、あの祈りの歌。
確かに、何かを掴みかけている。けれど、まだ言葉にするには早い。
そんな静かな動揺が、彼の双眸の奥に沈んでいる。
その時、慌ただしく駆け寄る足音がひとつ。
「ルティ…!大丈夫?怪我は?」
ルチルが切羽詰まった表情でこちらに近づいてくる。
転んだ拍子に汚れたであろう服を気にする様子もなく、ルティエの無事を真っ先に確かめていた。
「わたしはだいじょうぶ……ルチルは?さっき転んだところ、痛くない?」
「うん、問題ない。それよりどうしてこんな無茶を……!」
「ごめんね…心配させて。でも、ルチルに何かあったらって…気づいたら飛び出してたの」
そう言って、ルティエは安心させようと明るく笑ってみせた。
そのひたむきな笑顔に耐えかねたように、ルチルがルティエを強く抱きしめた。
強く、けれどか細い肩が、僅かに震えている。
抱きしめられる力がほんの少し強くて、けれどそれが嬉しかった。
ルティエは何も言わず、その背をやさしく撫でた。
そうしてルチルが落ち着くのを待った後、やがてルティエは改めてアルジェントの方へ向き直る。
凛と背を伸ばし僅かに頭を垂れると、長い髪がするりと肩から零れ落ちた。
「お話の途中で失礼致しました。…わたしはルティエ・フィオニアと申します。この度はまことに……」
瞬間。
ぐらり、と視界が歪む。
(あれ……?なんだか、目の前が暗く……)
「……!」
「ルティ……!?」
二人の腕が、どちらともなく同時に伸びた。
けれどそこへ辿り着くより先に、ルティエの身体がゆっくりと崩れ落ちてゆく。
河のせせらぎが遠ざかる。天地の感覚が失われ、深淵へ身を委ねるように。
使い果たした力が静かに底を抜け、彼女の意識は、そのまま眠りの底へ沈んでいった。
◆ ◆ ◆
――まばゆい光が、瞼の裏に滲んだ。
遠くで奏でられる弦楽器の音色。幾重にも重なる笑い声と、磨き抜かれた床を滑る靴音。沈んでいた意識が浮かび上がるにつれ、それらは次第に輪郭を帯びてゆく。
目の前に広がっていたのは、絢爛たるダンスホールだった。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアには、数え切れないほどのクリスタルガラスが連なっている。燭台の明かりを受けた一片一片が星のように煌めき、金の装飾が施された広間へ、燦然たる光を降り注がせていた。
ゆるやかな旋律に合わせ、着飾った男女が円を描く。色鮮やかなドレスの裾が花弁の如く翻り、その合間を縫うように、銀盆を手にした給仕たちが行き交っている。
どこまでも華々しく、息を呑むほど美しい夜。
その光の中心を、毅然とした足取りで歩んでゆく。
一歩、また一歩踏み出すたびに、いくつもの視線が追ってくる。
好奇。羨望。憧憬。そして――隠しきれぬ嫉妬。
それらを一身に浴びながら、純白のドレスを纏った少女は広間を堂々と進んでゆく。
幾重もの薄布が重ねられた裾には銀糸の花刺繍が施され、胸元を飾る宝石と共に、清らかな輝きを零している。決して派手ではないが、緻密で手の込んだ上品な意匠は、着る者の繊細さをより際立たせていた。
やがて、その足が一人の青年の前で止まった。周囲の者たちと談笑していた青年も、彼女の姿を認める。
「ごきげんよう、殿下」
淡い微笑みを湛えながら優雅に膝を折るその姿を、青年は親しげな眼差しで見つめた。
「ああ、君か。昨今の活躍は、私の耳にもよく届いているよ。本当に素晴らしいね」
「まあ……傑出と名高い殿下に、お褒めの言葉をいただけるなんて」
ほっそりとした指先が、胸元で静かに重ねられる。
「……うれしい。今宵は、特別な夜ですわ」
その声音は甘く、どこか慎ましやかだった。まるで大切な宝物を抱くように言葉を紡ぐと、少女は小さくはにかんだ。
青年もまた、慈しむような笑みを彼女へ向けていた。
「まあ、ご覧になって。聖女様ったら、またご自身から殿下に擦り寄られて……」
「目下の者からお声掛けするなんて、マナー違反ですわ」
「ああ、卑しいこと。常識というものをご存じないのかしら」
少し離れた場所で、数人の貴婦人が扇を広げている。口元こそ隠されていたものの、細められた瞳と嘲るような笑みまでは覆い隠せていない。
聞こえていないと思っているのか。それとも、初めから聞かせるつもりで声を潜めているのか。どちらともつかぬ囁きには、鋭い悪意が滲んでいた。
「……申し訳ありません、殿下。人混みに、少々気疲れしてしまったようです」
先ほどまでの微笑は淡く翳り、長い睫毛が頬へ儚げな影を落とす。
「大丈夫かい? 休憩室へ案内しよう」
「お心遣い、痛み入ります。ですが今夜は、陛下がわたくしのためにと、お部屋をご用意くださいましたので……」
「ああ、それなら早く戻って休むといい」
青年は心配そうに顔を覗き込むと、娘の髪をひと房、そっと掬い上げた。そのまま恭しく唇を寄せ、艶やかな髪へ口づけを落とす。
娘は恥じらうように瞳を揺らし、それでも名残惜しげに青年を見つめ返した。
「……また、お逢いできますように」
舞踏会の喧騒が、遠ざかってゆく。ドレスの裾を引きながら辿り着いた先は、王宮の一室だった。
貴人を迎えるために整えられた部屋は広大で、壁紙から調度品に至るまで、ひとつとして粗末なものはない。
部屋の奥へ進めば、そこには色とりどりの贈り物が所狭しと並んでいた。長椅子からテーブルの上までを埋め尽くし、まるで今宵の華やぎをそのまま運び込んだかのようだ。
艶やかなリボンで飾られた菓子箱。蝶の細工があしらわれた香水瓶に、繊細なレースの扇。抱えるほどもある花束の合間には、封蝋の押された手紙がいくつも積み重なっている。
「まあ……これは、すべてわたくしに?」
少女は驚いたように両手を合わせ、室内を見回した。
「皆、聖女様とお近づきになりたいのでしょう」
傍らに控えた侍女が、微笑ましげに答える。
「ふふ……うれしい」
テーブルの上から手紙の束を取り上げると、壊れ物を扱うように優しく胸へ抱いた。
窓の外には、冴え冴えとした月が浮かんでいる。青白い月光を纏った庭園は深い静寂に沈み、どこか幻想めいた美しさを湛えていた。
「こんなに愛してもらえて……しあわせものだわ」
胸いっぱいに抱いた手紙へ頬を寄せたまま、少女は窓辺に佇んでいる。
月明かりの差し込む静かな部屋に、しばし穏やかな時間だけが流れた。
やがて、傍らに控えていた侍女がおずおずと口を開く。
「……そういえば、伯爵からも改めてお手紙が届いております」
少女から返事はない。
窓の外へ向けられた眼差しも、抱きしめた手紙も、そのままだった。
「以前から日も経っておりますし、せめて読んで差し上げるだけでも……」
侍女は僅かに逡巡したのち、一通の白い封筒をそっと差し出した。
しばらくして、少女の指先がようやくそれへと伸びる。
端をつまむように受け取り――。
びり、と乾いた音が響いた。
白い封筒が、細い指の間で真っ二つに裂かれていた。
もう一度、さらにもう一度。
封は開かれることすらなく、破かれた紙片だけが、雪のように足元へ散ってゆく。
「……こんな偽物、いらない」
ひどく冷え切った声だった。先ほどまで広間に響いていた甘やかな声音が嘘のように、そこには温もりの欠片すら残されていない。
足元に散った紙屑には目もくれず、長椅子へ歩み寄る。その中から白い熊のぬいぐるみを手に取ると、少女はゆっくりと室内を見回した。
いつしか、侍女の姿は消えていた。
窓から差し込む月明かりが、ひとり佇む少女の銀髪を淡く照らしている。
「こんなに、わたくしは愛されている……」
その唇が、ゆっくりと弧を描いた。
「……みんな、みぃんな……わたくしのものよ」




