第一章【6】調和の歌
「――魔導術式、凍結完了。これ以上の二次災害は防げます」
水飛沫と炎の残滓が舞う中、その異色の双眸だけが静かに光を宿していた。
端正に切り揃えられたブロンド髪を僅かに揺らし、マリウスは表情一つ変えず厚手の魔導書を閉じた。
20歳という若さでありながら、水と炎という対極の属性を同時に操る彼の魔導センスはまさに天才的だった。
帝国でもその能力は広く知れ渡り、アルジェントの右腕としてたちまち名を馳せたのは言うまでもない。
が、被害を最小限に食い止めた彼の横顔に得意げな色は一切無かった。
新型魔導運河の試験運用にあたり、この町の噴水には『親機』となる制御台座が設置された。
そこから網の目のように張り巡らされた水路を伝い、各所水門にある『子機』へと魔導回路を繋ぎ、合理的かつ完璧に水流を制御するのが今回のプロジェクト。
その『親機』が、原因不明の作動不良によって大暴走を引き起こしたのだ。
「お見事です、マリウス殿。相変わらず無駄のないお仕事ぶりで」
音も無く現れたかと思えば、優雅な笑みを浮かべ被害状況を手帳に書き留めるジルベール。
彼特有のニヒルな面立ちから、必要以上に含みがあるのではと邪推してしまう。
「……総監の、指示通りに動いただけです」
不愛想に視線を逸らす最年少副官に、ジルベールは苦笑を返した。
いつかその真面目さがたたらなければ良いのだが、と。
手帳を閉じ、未だ微かに光の粒子が乱舞する水路の奥へと視線を巡らせる。
「レクス・マキナの術式自体に、問題は無さそうですね」
「だったら、一体何が原因で……?」
マリウスが僅かに眉をひそめる。
数式にも、回路の展開にも、帝国の技術における不具合はただの一箇所も見当たらなかったのだ。
しかし運河の暴走が魔導、あるいは魔法的な作用で発生しているのは火を見るより明らかだ。
「さあ。魔導の知見が浅い私には判り兼ねます……が」
琥珀色の双眸を細め、さらにその先……狂風の中、白銀の軍服をたなびかせ一人進んでゆく背中を見つめる。
「我が主――アレン様ならば、すでに答えに辿り着いておいででしょう」
理屈の通じない異常事態。
いつもなら冷徹に部下へ処理を命じるはずの彼が、自ら引き寄せられるように、光の濁流の渦中へと歩を進めていく。
その理由を、側近の二人すら、まだ知る由もなかった。
◆ ◆ ◆
「これは……精霊の気配、か」
轟々《ごうごう》と乱舞する水飛沫と、狂乱の風の渦中。
長く美しい髪を揺らしながら、アルジェントは深海色の瞳を冷ややかに細めた。
立ち上る気配の正体にどこか懐かしさを覚え、微かに瞳の奥を揺らす。
しかしそれもほんの一瞬。氷の侯爵として隙の無い威厳と冷徹な空気は、微塵も崩れはしない。
直後、咆哮と共に正面から迫り来る巨大な水の濁流。
常人ならば悲鳴を上げ逃げ惑うその暴走に対し。アルジェントは表情一つ変えることなく、短く呪文を紡ぎ、静かにその手をかざした。
「魔氷空間、起動――」
パキン、と世界が爆ぜるような凍結音が響く。
手元から解き放たれた極寒の波動が、一瞬にして猛る水渦を根こそぎ凍りつかせ、巨大な氷の彫刻へと変貌させた。
これこそが『銀氷侯爵』の二つ名の由来であり、祖国に怖れられ、同時に称えられた彼の魔導領域――《絶対零度》。
「なるほど。精霊の拒絶反応であるならば合点もいく」
凍てついた水塊を見上げ、理性的且つ論理的な思考を巡らせる。
未だジルベールの報告を受けてはいないが、おそらく帝国の魔導術式に不備は無い。
広場で彼自身がレクス・マキナを起動した際、魔力の滞りを一切感じなかったからだ。
ならば原因は後天的なもの。加えて感知されたのは母国の人為的魔力波長とは異なる、純粋な天工的魔力波長の揺らぎ。
考えられるのは…この地に満ちる精霊たちの抗拒だった。
しかし、精霊を信仰しているのはこの国から帝国を跨いだ更に向こう側…オルフェリオン公国である。
リヴェラ皇国にも精霊は存在するが、国民たちとの接点はほぼ皆無。ましてやトラブルなど聞いた事も無い。
(……さて、どう対処したものか)
解決策を模索し始めたまさにその瞬間――アルジェントの視界の端に、二人の少女の姿が映り込んだ。そしてそのうちの一人には見覚えがあった。
今朝方から馬車、そして広場にて気を引かれた特殊な『何か』を微かに纏っていた少女だ。
そういえば、彼女から感じ取った気配にも精霊の波長が含まれていた。
これは……偶然なのか?
しかし数秒後、彼の意識が向かうのは。
紺髪の少女を庇うように小さな両腕を広げ立ちはだかる、もう一人の少女だった。
重力を無視した暴渦を目前に、今まさに襲い掛かられても何ら不思議は無い絶望的な状況。
そんな彼女の中心から、驚くほど純度の高い――神聖な魔力が溢れ出している。
瞬間、アルジェントの脳裏が銀色に染まる。
(そんな、筈は……あの魔力は…!)
――理性が「あり得ない」と解を得るより早く、身体が動いていた。
白銀の外套を翻し、アルジェントは激流の渦中へと深く駆け出していた。
正面から決壊した巨大な濁流が、逃げ遅れた二人の少女を呑み込もうと迫る。
《絶対零度》を操るアルジェントだが、広範囲の魔導展開において、特定の対象――あの二人の少女だけを凍結領域から除外するには、ほんの数秒の精密な計算と猶予を要する。
だが、迫る激流にその『数秒』の猶予すらない。
(間に合え……!)
「……っ!」
「えっ……?」
ルティエからすれば、それはまさに一瞬の出来事だった。
己の無力さを嘆き、半ば縋るような祈りを捧ぐ最中、視界を覆う絶望的な水の壁。
死を覚悟しギュッと目を瞑った瞬間、突如として強い力で身体を引き寄せられ、芳醇な冷香を纏う腕の中に抱き締められていた。
激しい水音が耳元で弾ける。
男の広い背中が、ルティエの視界を覆う強固な盾となっていた。
さらに驚くべきは、激流が衝突する直前。
彼の背を『絶対的な境界線』として魔導展開が巻き起こった。
背後数ミリの空間に届いた水滴から先だけが、寸分の狂いなく一瞬にして凍てついたのだ。
衝撃とともに激しく飛び散った無数の水沫が、空中で一斉に結晶化する。
ルティエの淡藤色の瞳に映ったのは、逆光の中で煌々と輝く無数の氷の粒子。
それはまるで――自分を抱く男の背中から、清澄雄大なる氷の翼が生え広がったかのような、あまりに幻想的な光景だった。
現実との解離さえ感じられる寒々とした美しさの中……ルティエはあたたかい、と感じていた。
力強い腕と広い胸から伝う温もりに、これまでの恐怖すら容易に溶かされてゆく。
なぜ、雲上の存在であるはずの銀氷侯爵が、自分のような平民の少女を身を挺して庇っているのか。
事態を呑み込み始めると同時に、混乱と驚愕で呼吸を忘れそうになるルティエ。
しかし、その疑問を投げかける猶予すら与えられないまま、またもや悲痛な叫びがたたみかけるように響いてくる。
『やめて…! ボクたちの大切な場所を壊さないで……!』
『こんな強引で人工的な力に支配されたくない……!』
(まただわ…やっぱりこれは、精霊たちの声……?)
胸を刺す痛々しい訴えが、無数の針となってルティエの心を貫いてゆく。
蹲りそうになる衝動をギリギリのところで抑え、ふらつきながらも彼の腕の支えに頼る。
気がつけば、大きな瞳からとめどなく涙が零れ落ちていた。
(どうしたらいいの…? 彼らのために、わたしができることは…なに……?)
少女の頬を伝う滴を目にした瞬間、アルジェントの息が止まる。
その涙。その悲痛な眼差し。 脳裏を灼き尽くすように蘇る、あの日、永遠に失われた『彼女』が重なる。
言葉にならないほどの激しい衝撃と静かな情動が、冷血と謳われた彼の心を強く揺さぶっていた。
絶望に濡れるルティエの胸の奥から、ふいに、やさしく美しい旋律が湧き上がる。
なぜ、この土壇場で歌を口ずさもうと思ったのか、自分でもわからない。
けれど……まるで自身の中にいる『もう一人のわたし』が、深く、強く、それを望んでいるような気がしたのだ。
風を切り、光を纏い、ルティエの唇が小さな波紋を喚び起こす。
《 歌え 祈れ 秘めやかに 我は乞う 地の安寧を
謳え 讃え 密やかに 我は願う 天の祝福を
大いなる世界 天つ光 愛おしき息吹
どうかそのすべてに 幸多からんことを 》
幼子をあやす子守歌にも似た、清らかで温かな愛の調べ。
歌が紡がれると同時に、ルティエの小さな身体の内側からきらきらと眩いばかりの光の粒が生まれ、溢れ出していく。
(だいじょうぶ……みんな、怖かったね。驚かせてごめんね)
まるで導かれるかの如く無意識下で奏でられる詩と旋律。
次第に心が赴くままに唱い、また彼女自身の祈りも深く重ねていた。
(けれど誰も、あなたたちを脅かしたりはしない。だから……わたしを、この町を、信じてほしい)
ルティエから溢れる光の脈動が周囲へと広がり、重々しい空気を穏やかに塗り替えてゆく。
歌を終える頃には、運河の暴走は跡形もなく消え失せ、町全体に静けさが戻っていた。
ただ一人、腕の中の少女を見つめながら…アルジェントはこの確信を逃すまいと、蒼氷の瞳に熱情を宿していた。




