第一章【3】親友とのお茶会
ルティエとルチルが森で待ち合わせたのは、麗らかな昼下がりのことだった。
今はフィオニア家へと戻り、二人でゆったりとお茶の時間を楽しんでいた。
「そういえば、レナに教えてもらった本。すごく面白かったよ」
「んーと……前に、ルチルにも読んでほしいって力説してた作品かな? レナが聞いたら、きっと喜ぶよ」
「いつも私が好きそうな本を選んでくれるの。すごいよね」
「ふふ。貴重な読書仲間だものね」
ソファに並んで寛ぎながら、二人は他愛ない話に花を咲かせていた。
テーブルには、シュガーローズティーとジャムを添えたスコーン、さらにルティエ特製のソフトクッキーが数種類並んでいる。
「ん……これ、すごくおいしい」
クッキーをひと口齧るなり、ルチルの表情がほころんだ。
表面はさっくりと軽やかにほどけ、それでいて口の中ではなめらかに、濃厚な甘みが馴染んでゆく。
相反するような食感の重なりがルチルには新鮮で、思わず次の一枚にも手が伸びていた。
「余った陽蜜芋を使ってみたんだけど、ルチルがおいしいって言ってくれるなら大成功だねっ」
「うん。ルティが作ってくれるお菓子の中でも、特に好き…かも」
「えへへ。ちなみにこっちは琥珀栗、これが星柚子だよ」
紅茶と菓子の芳香に包まれながら、大切な親友と語らうひとときは、ルティエにとって何ものにも代えがたい至福の時間だった。
「ルチルのお家ではたくさんおいしいものが出てくるのに、わたしのお菓子でこんなに喜んでもらえるなんて、うれしいな」
ルティエにとっては、何気なくこぼした一言だった。
しかし、カップを口元へ運びかけていたルチルの手が止まる。
やがてルティエの瞳をまっすぐに捉えると、迷いなく告げた。
「ルティが作ってくれるものの方が、ずっとおいしいよ」
ルティエの淡い藤眸が、一瞬、円く見開かれる。
けれどそこに灯った光は、すぐに睫毛の翳りへ沈んでしまった。
「そんな、プロの料理人さんが作るものには敵わないよ。わたし、不器用だし、切った食材だって形がでこぼこで……」
(あれ…やだな。折角ルチルが褒めてくれてるのに……)
「本当は、お母さんやお姉ちゃんみたいに器用で、お裁縫ができたらよかったんだけど……家計も助けられるし。でも、わたしには才能がない、から……せめてお料理だけは、って……」
ほんの少し、弱音をこぼすだけのつもりだった。
けれど、胸の内にはじわじわと黒い感情が滲み広がっていく。
自分の意志とは裏腹に、得体の知れない何かに侵蝕されてゆくようだった。
親友を困らせたいわけではないのに。
なんて言ってほしいの?
そんなことないよって言ってほしいの?
期待してるの?
………違う。わたしには、何も無い。
何も無いのがわたし、だから。
自責、寂寥、劣等感……。
この感情はどこから来るものなんだろう。
だめだ、だめだ、だめだ。
楽しい時間だったのに。
また間違える。取り返しがつかなくなる。このままじゃ、『また』――
「ルティ」
名を呼ばれ、はっとした。
深みへ嵌まり込んでいた意識が、ルチルの声によって現実へと引き戻される。
(……なに、今の)
時折襲ってくる苛烈な自虐心。
確かな自分を持つ者への、底無しの羨望。
歪んでゆく思考。
自分が自分でなくなるようで、ルティエは身震いした。
「ごめんなさい……変なこと言って」
ルチルは神妙な面持ちでソファから立ち上がると、ルティエの前へと歩み寄り、そっと膝を折った。
白く長い指が伸び、微かに震えている小さな手を包み込む。
「そんなこと言わないで。ルティにはルティにしかないものをたくさん持ってるよ」
微かに寂しさを帯びた鈴音のような声が、優しく、ゆっくりと語りかける。
安心させたい一心から、揺るぎない真実であると言わんばかりに。
「それに……私にとって、ルティはこの世でたったひとつの光なんだよ」
詩うように、ささめくように。
紡がれるのは眩しい想い。
それはまるで、神聖な祈りを耳にしているかのようだった。
「……っ」
ルティエは言葉に詰まった。
ルチルの言葉があまりにも美しすぎて、耳が熱くなる。
本当に……わたしに言ったのだろうか、と。
本音を言えば、これほど嬉しいことはない。
だが、それを己に向けられたものとして受け入れることは、自分自身を肯定するようで、素直に頷けなかった。
無論、だからといって否定することも失礼だと弁えている。
(……なんて返したら……)
ルチルの眼差しを感じるのに、顔を上げられない。
繋がれた手から、自分の熱が伝わってしまいそうだ。
嬉しい、恥ずかしい、否定したい、信じたい、頷けない、聴いていたい――
ぐるぐると巡る相反する想いから抜け出せずにいると。
「ルティ~! ビッグニュースだよ~~!!」
扉を強く叩く音とともに、はつらつとした声が飛び込んできた。
◆ ◆ ◆
「どうしたの、チコ……そんなに息を切らして」
軽く咳き込む少女を招き入れると、ルティエは水を注いだグラスを差し出した。
頬に張りついた栗色の髪を払いながら、彼女は有り難そうに受け取ると、勢いよく飲み干す。
ルミエスタの町に暮らすチコは、二人の学生時代の級友である。
リヴェラ皇国では六歳から十六歳までの十一年間、学校へ通うことが義務づけられており、三人もそこで知り合った。
「あ、ありがと。……あれ、ルチルも来てたんだ」
「うん。お邪魔してます」
突然の来訪にも、何事もなかったかのように微笑むルチル。
内心で安堵しながら、ルティエはチコの様子に首を傾げた。
「それより、さっきビッグニュースって言ってなかった?」
「あっ、そうだった! あのね、『銀氷侯爵』様が町に来てるんだって!」
しかし、級友の意気軒昂たる告知も空しく、ルティエとルチルはきょとんと顔を見合わせた。
数秒の静寂の後。
「……『銀氷侯爵』様って……」
「……誰?」
「……うん、まあ、そうなるよね」
勢いに任せて口にしたものの、よくよく考えてみれば、二人が知らないのも無理はない。
チコはひとつ咳払いをすると、居住まいを正した。
「えっと……近年、レミストリス帝国の魔導技術がリヴェラ皇国にも浸透し始めてるのは知ってるよね?」
「うん。ルミエスタみたいな田舎町でも、ここ数年で便利な魔導具が普及してきたよね」
隣国、レミストリス帝国。
最先端の魔導技術を独自に発展させ、大陸でも圧倒的な勢力を誇る軍事国家である。
リヴェラ皇国との親交も厚く、水上貿易が盛んで多文化に寛容なこの国に、魔導具が受け入れられるまで、そう時間はかからなかったという。
実際、フィオニア家の地下室でも、温度を一定に保つための魔導具が使われている。今では、どの家庭にも何かしらひとつは普及しているほどだ。
「その魔導技術開発の第一人者、アルジェント・フォン・セレナードが!今、この町に来てるんだって! しかも、すっっっごくイケメンって噂!」
興奮のあまり、次第に声量が増してゆくチコ。
大きな橙色の瞳には、好奇心という名の力強い耀きが宿っている。
最後のひと言こそがすべてに聞こえるのは、彼女のミーハーぶりの表れだろう。
「あぁ……セレナード侯爵か」
「ルチル、知ってるの?」
「社交界では有名だよ。帝国の若きエリート……麗しき皇太子付き近衛魔導総監、だったかな?」
ふと掘り起こされた記憶を、冷静に手繰るルチル。
豪商の娘として社交界へのデビューも済ませている彼女は、貴族社会にもある程度精通していた。
「それでそれで! その『銀氷侯爵』様が、ルミエスタの川をぜ~~んぶ、魔導技術の実験のために改造しちゃうらしいよ!!」
「えっ……ルミエスタの川を? ……でも、どうして帝国や皇都じゃなくて、こんな場所で?」
チコが勇ましく次なる情報を披露するも、ルティエの素朴な疑問によって、その勢いは瞬く間に萎んでゆく。
「それは~……わかんないけど」
「それって、新型魔導運河の試験運用のことじゃないかな?」
「魔導運河……?」
「公には出されていない情報だけど、近々、皇都の運河に軍事級魔導具の導入が検討されてるって耳にしたよ。多分、その実証実験の一環がこの町で行われてるのかも」
想像していたよりも話の規模が大きかったためか、チコの思考は完全に凍りついていた。
「改造って言ったら聞こえはよくないけれど、要するに、安全で効率のいい技術を導入して、運河をもっと使いやすくしましょうっていう試みだよ」
「なるほど……」
ルチルの絶妙な要約のおかげでなんとか理解に至り、チコは何度も深く頷いた。
そのやりとりに学園生活の面影を重ね、ルティエは早くも懐かしさを覚えながら、楽しげに二人を眺めていた。
「じゃあさ、折角だし見に行こうよ!」
「見に行くって……その実験を?」
「それもだけど、『銀氷侯爵』様をだよ! すっごく美形だっていうし、見てみたくない?」
食い下がるように、チコはテーブルから身を乗り出した。二人を誘おうとする意気込みたるや、凄まじいものがある。
圧倒されかけたルティエは、困ったように笑いながらルチルを窺った。
――どうする?
期待に目を輝かせるチコを、静かに見やるルチル。
……数秒後、淡い吐息とともにルティエへ視線を戻した。
肩を竦めた彼女の微笑が、その答えだった。
長年寄り添ってきたルティエには、それが「仕方ないね」の合図だとよく分かった。
「う~ん……じゃあ、お買い物ついでにちょっとだけ、ね」
「やったー! そうと決まったら、今から行きましょ!」
「えっ、まだお茶が……」
「せめて、全部飲み終わるまで待って」
すっかりその気になったチコに急かされながら、二人はカップに残った紅茶を飲み干す。
ゆるやかな時間から始まったお茶会は、こうして慌ただしく終わりを告げた。
菓子を残したまま無人となったリビングには、ふわふわと集まる光たちだけが、どこか寂しげに漂っていた。




