第一章【2】ルミエスタの森と精霊
馬車の窓から望む朝の景色は、運河の煌めきと豊かな緑に彩られていた。
まだ人通りも少ない時間帯。
町中を結ぶように流れるゆるやかな川と、随所に窺える手入れの行き届いた植物たち。
歴史的趣を蓄えた建造物が立ち並ぶ通りは、それだけで特別な佇まいとして五感を刺激してくる。
同時に、ぼんやりと眺めるだけで日々の疲れが癒されるようだった。
(……皇都でも思ったが、帝国とは文字通り空気そのものが違うな)
魔導技術で発展を遂げた自国とは裏腹に、自然との共存を重んじる事で独自の文化を築き上げたリヴェラ皇国。
(あちらの鉄や油の匂いに比べれば、この国の素朴さと澄んだ水の気配は……なるほど、悪くない )
その為、皇都や地方であっても街中は水や草花に溢れている。
観光地としての人気が高いのも頷ける。
ともあれ……数日間に及ぶ不慣れな国での強行軍。退屈で仰々しいだけの外交挨拶に、山積みの雑務。
……完璧に鉄面皮を張り付かせていたつもりだった。
が、この最新式の魔導馬車がもたらす極上の揺れは、呪いのように心地よく、容赦なく彼の体力を削り取ってゆく。
重くなる瞼を、自慢の理性でも支えきれそうにない。
(だめだ…眠気が……)
さらにこの国独特の穏やかな空気により、蓄積された疲労が容赦なく綻び始めてゆく。
蒼玉を思わせる瞳が長い睫毛に遮られる……
その時だった。
「―――!!」
なんだ、今のは。
薄れかけた意識を一瞬で覚醒させるほどの衝撃が、彼の裡を駆け巡った。
……ひどく懐かしい。だが、まごう事なきあの感覚。
この国では珍しい『精霊』の気配。それも、数種の属性が幾重にも重なった『何か』。
即座に馬車の外へと視線を走らせる。
期待と焦燥が入り混じってか、心臓の音がやけに煩く感じられる。
……が、往来する人の姿がまばらにあるだけで。
彼が期待したような『何か』を認めることは出来なかった。
「……気のせい、か」
どこか落胆にも似た感情に蝕まれるように、小さく息を吐いた。
ふと視界を遠くへ移せば、小川に掛かる橋上に佇む少女と目が合った。
濃紺の短髪に中性的な顔立ちの、…質の良い身なりからしておそらくは育ちの良い娘だろう。
偶然交わった視線はどちらからともなく離れていき、すぐに互いの記憶から消え去った。
ほんの一瞬の違和感は速度を上げた馬車の音にかき消され、そのまま置き去りにされてゆく。
――ただのひどい寝不足だ。そう思考を切り捨て、ただ目的地へと向かっていった。
◆ ◆ ◆
ルティエの住む家は、ルミエスタという町の郊外にある小高い丘の上に建っていた。
町から北へ出てほんの目と鼻の先…柔らかな草原に満ちた坂道を登ればそこがフィオニア家だ。
さらにその裏手には、背の高い樹々が立ち並ぶ深い森が広がっていた。
通称『ルミエスタの森』。リヴェラ皇国を流れる水脈の最上流に位置し、森の最奥には『最初の一滴』とも呼ばれる聖なる泉が湧いている。
木漏れ日が降り注ぐ中、倒木に腰掛けたルティエは何度も森の入口へ視線を向けていた。
「……早く来すぎちゃったかな」
森の奥は陽が入らず鬱蒼とし、足場も悪い。
が、入り口付近ならば興味本位で訪れる観光客を含め人通りが一定数あり、安全な道が自然と保持されていた。
二人が待ち合わせによく使用するこの場所は、地元民でも見落としがちなか細い道を進んだ先にある。穴場というやつだ。
森の中を反響する小鳥達の囀り。ちゃぷちゃぷと流れるやわらかなせせらぎ。
耳に届く全ての音が心地よく、自然と頭の中が空っぽになる。
ここはふたり共通のお気に入りの場所。
ルチルを待つ間も、ルティエは膝の上の紙袋を何度も開いては、その中を確かめていた。
小花柄のペーパーと緻密なレースリボンに彩られた二つの瓶。
どちらも崩れていないことを確かめると、ようやく小さく胸を撫で下ろす。
(スモモのジャムも多めに作っておいてよかった。一つだけだとお礼には少し寂しいし、ね)
自然と頬が緩んでしまう。
きっとルチルなら、喜んでくれる。
そんな確信が、心のどこかにあった。
家族みんなのお墨付きもあるけれど、どんな贈り物も心から喜んでくれるルチルだから。
逸る気持ちを抑えつつ傍らを流れる小川に意識を向ける。
浮き足立つ心を落ち着けようと、森に満ちる清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
ひんやり冷たさを伴い、頭のてっぺんから足の爪先まで浄化されるような心地だ。
繰り返し息を吐き出していると、仄かな光が水面を跳ねた。
それも一つではなく、水色、緑色といくつかの大小様々な大きさで。
視線に気がつくと、その光はゆっくりとルティエの周りに集まってくる。
『おはよう、ルティ』
「みんなおはよう」
心の中に直接語りかけてくるような、不可思議な感覚。
けれど決して煩わしいものではなく、その淡い輝きたちが抱く和やかな温もりが伝わってくるような響きだ。
『今日はひとり? ルチルは?』
「今ちょうど待ち合わせしてるところなの。もうすぐ来るはずだよ」
それは、彼女だけに視える光。
彼女だけに届く声。
ルティエは生まれつき、おとぎ話の存在とされる『精霊』を感じ取ることができた。
ある程度の年齢になると周囲には見えていないと察し、誰に話すこともしなかったのだが。幼馴染のルチルにだけは、その秘密を明かしていた。
『ねぇねぇ、その手に持ってるの何~?』
「以前みんなが木苺の実ってる場所へ連れて行ってくれたでしょう? あれを早速摘んで、ジャムにしたの」
『わぁ~、いいな! わたしたちも食べたいっ』
「ふふ、みんなのおかげだものね。帰ったらスコーンと一緒にいただきましょう」
『ぃやった~!』
精霊たちはいかにも嬉しげにルティエの目の前をくるくる飛び回った。
時折、肩や頭へあたたかな光が降り立つ。
無垢な笑い声を纏った気配が、草花の陰にふうわりと見え隠れしている。
彼らの存在を微笑ましく見守っていると、聞き馴染みのある足音が近づいてきた。
ルティエは小さな期待を秘めつつそちらへと振り向いた。
「ごめんね、ルティ。待たせちゃったかな」
「ルチル……おはよう! 少し前に来たばかりだよ、だいじょうぶ」
濃紺の髪を揺らしながら、少女が気持ち足早に歩み寄ってくる。
すらりと伸びた手足に華奢な体躯。
短い髪とは対照的な、露出を抑えた上品な装いは、彼女ならではの中性的な美しさを際立たせている。
思わず見惚れそうになるのを堪え、ルティエは慌てて立ち上がった。
「それに『みんな』とおしゃべりしてたから」
「ん…それならよかった。それで、なんの話をしていたの?」
ルチルはいつものように穏やかな微笑みを浮かべ、静かに耳を傾けてくれる。
横髪を耳にかける仕草ひとつ洗練されており、揺れ注ぐ燐光に反射する萌黄色の双眸は、宝石の如き燦きを放っている。
森の中でもひと際凛々しく、決して埋もれることの無い存在感。
「えっと…この前みんなが、木苺のある場所を教えてくれて。それで、これを……」
はにかみながらもおずおずと紙袋を差し出すルティエ。
不安半分、期待半分。揺らぐ瞳がそう語っているようだった。
「……もしかして、私に?」
「うん。この間、素敵な紅茶をくれたでしょう。そのお礼」
両手で袋を受け取ると、早速開封し瓶を手にしたルチル。
愛らしいラッピングに感動しながらも、手の中の深みあるルビー色をまじまじ見つめている。
その間もルティエは落ち着かない素振りでその様子を見つめていた。
「これって…ルティの手作り?」
「あ……うん。いただいたものには、全然及ばないんだけど……」
「そんなことない! すごく……嬉しい」
感嘆を滲ませた声。
まっすぐな眼差し。
そして、大切なものを抱きしめるような微笑み。
そのどれもが、心からの歓びを物語っていた。
「ありがとう、ルティ」
深緑のささやきを乗せた風が、二人の間を穏やかに抜けてゆく。
親友の耀く笑みを受けて、ルティエもまた、花開くような笑顔に満ち溢れたのだった。




