第一章【1】フィオニア家の朝風景
はじまりはいつも、闇に差し込む光からだった。
導かれるように重い瞼を開けると、見慣れた机に朝の陽ざしが降り注いでいる。
まだ朧気な視界の中、淡い光の玉が戯れるように揺らいで。
窓の向こう側から小鳥達の囀りが心地よく響いている。
よく知る朝の光景に、安堵の息が漏れた。
「んん……夢、見てたような…なんだっけ?」
ぼんやりと思考が醒めやらぬまま、緩慢な動作で体を起こす。
こんなに気持ちの良い朝なのに、心にはぽっかりと穴が開いているような空虚感が残っている。
それは…何か良くない夢を見ていたせいだろう。
「……う~ん、想い出せない」
ただ、自分にとって忘れてはいけない事のような気がして。
胸の奥が、今もドキドキと震えている。
どこか後ろ髪惹かれる想いで、しばらくベッドから動けずにいた。
ゴーン、ゴーン、ゴーン……。
そうしている間に響いてきたのは、教会の鐘の音だ。
毎朝決まった時刻を知らせる厳かな音色に、いつしか頭の中の靄も晴れていった。
「いけない、もう起きなきゃ…!」
大きく伸びを一回。ぺちぺち、と軽く両頬を叩き意識をはっきりさせる。
ようやくベッドから立ち上がり、開け放った窓から呼び込んだ風が、清々しい緑の香りを運んでくる。
すると、階下から彼女を呼ぶ声が届く。
「ルティエ~!」
「はーい、今行きます!」
手早く着替えを済ませ鏡の前に腰掛けると、淡藤の双眸が鏡の中でこちらを見返した。
軽い笑みを浮かべながら、お気に入りのユリ彫櫛を髪に滑らせる。深紫色の艶やかな髪が、さらりと梳かれてゆく。
やがて、引き出しの上を彷徨っていた指先が、薄桃の光沢を放つサテンリボンを選び取った。
多少苦戦しながらも、おもむろに上髪を結い上げてゆく。
「できたっ」
左右から仕上がりを確認し、満足げに頷く。長い髪とリボンを揺らしながら、ルティエは軽やかな足取りで階段を下りて行った。
「おはよう」
「あ、ルティエ。やっと起きた。もうボク、お腹すいちゃった」
ダイニングへ向かうと、妹のレナが既にテーブルについていた。
趣味の本を手にしながらも表情からは空腹の限界が窺え、ルティエは小さく笑いながらも急いでエプロンを身に着けた。
「ごめんね、すぐに朝ごはん作るから。お母さんとお姉ちゃんは?」
「さあ。まだ寝てるんじゃない? 昨晩も遅くまで起きてたみたいだし」
「そうなんだ……あっ、火を起こしてくれたの? ありがとう」
「まあそれくらいはね」
手早く水瓶から水を汲み、ケトルへ注ぐと、既に薪が爆ぜる石造りの竈へ乗せる。
湯が沸く間にとキッチンの片隅にある地下扉へと向かい、ひんやりとした冷気が漂ってくる薄暗い空間へ、ルティエは迷いなく足を踏み入れる。
僅かに差し込む光を頼りに小さな階段を降りてゆくと、様々な食材が棚毎に分類されている。
そして一際奥まった場所に煌々と光るガラスドーム。その中で冷たい輝きを放つのが、氷晶核だ。
(コアは……うん、まだ充分に魔力がありそう)
この地下貯蔵庫を一定の温度に保ってくれるとても便利な魔導具で、一家に一石、が売り文句なのだと帝国出版の雑誌に書いてあったのを思い出す。
魔力残量の確認もそこそこに、手早く朝食の材料を見繕う。
パンに卵、ソーセージ、葉物野菜にカラフルトマト、シルクミルク…。それらをカゴに詰めキッチンへ戻ると。
「あ、お母さん。おはよう」
「んー……おはよう」
未だ眠気眼のまま、盛大な寝ぐせをつけた母・アンナが、洗面台へ向かっていた。
「昨夜は遅かったの?」
「まあね…突然納期を早めてくれってお願いされてさ。なんとかキリの良いところまでは終わったんだけど…」
「そっか、お疲れさま。今お茶入れるから、朝ごはんもうちょっと待ってね」
会話が進む間にも、ルティエは食器棚から茶器を取り出していた。
ゴールデンルールに基づき温めたポットに、茶葉と沸騰したばかりの湯を注いで。
透明な硝子の内側で薄紅色の花弁がくるくると舞い踊る最中も、ルティエは朝食の準備を進めてゆく。
「ねえ、これこの間貰ったヤツ?」
不意に背後から投げかけられた声に振り向くと。読書を切り上げたレナが、朝食の準備を手伝ってくれていた。
人数分の食器とカトラリーを、いつものように決まった配置で並べてくれている。
「うん、そうだよ。ルチルが帝国のお土産にくれた紅茶。シュガーローズの花弁が入ってるんだって」
「確か皇都にも出回ってない銘柄だよね。さすが大商家の令嬢……」
「あはは。今日会ったら、改めてお礼しなくちゃだね」
花びらから甘く芳醇な香りを放つことで名高いシュガーローズ。
自然豊かなリヴェラ皇国でも滅多にお目に掛かれない、隣国レミストリス帝国の特産品だ。
ゆっくりと紅茶が注がれたカップから立ち上る、上品かつ甘い香りの湯気が、レナの鼻孔をくすぐる。
「わ…すごいよ、ルティエ。こんなに深みのある味、初めてかも」
「どれどれ……」
いつの間にか身支度を済ませたアンナが、カップを唇へ運んでいた。
「ふぅん。確かに素敵な香りね」
「ルティエも早く飲んでみなよ」
「わ、わ、待って。もうすぐ卵が焼けるから……」
芳ばしい音を立てながらフライパンを揺らすルティエの背後では、親子の楽しげな会話が弾んでいる。
ソーセージが控えめに跳ねる傍ら、年季の入った鉄鍋からは白い湯気が立ち上る。
竈の備え付けオーブンからは、次第に甘いパンの香りが漂ってきた。
何気ないフィオニア家の朝の風景。
けれどルティエは、この時間が幸せで堪らない。
「おまたせ! 出来上がったよ。レナ、お姉ちゃんを起こしてきてくれる?」
「は~い。…あ、ボクの分、ポタージュ多めね」
ウォルナットプレートに盛り付けられた鮮やかで瑞々しいサラダに、ちょっぴり皮が裂けたソーセージと黄金色のオムレツが湯気を纏い並ぶ。
一晩寝かされたポタージュはとろりと濃厚な仕上がりで、サクサクのクルトンが控えめに浮かんでいる。
バスケットにはこんがり焼き上がったバケットと木苺のジャム、ピッチャーを白く染めるシルクミルクも朝食の定番だ。
「ふぁ……おはよう。寝坊しちゃった……」
起き抜けであろう姉のエリスが申し訳なさそうに部屋から降りてきた。
寝巻のままだが、皆を待たせない様にと急いで席に着く。
「おはようエリス。昨日のレースは完成した?」
「ええ、なんとか。細かいところを処理したら、午後には納品出来そう」
「そう。わたしも今日納品だから、その後一緒に材料の買い出しに行きましょ」
全員が椅子に腰掛けると、各々が手を合わせ食前の祈りを捧ぐ。
リヴェラ皇国で信仰されているのは女神アリシャ。
自然豊かで交易の盛んなこの国では、誰もが女神への感謝を胸に日々を過ごしている。
(今日も生命の糧をお与えくださること、感謝致します)
ふわり。
いくつかの小さな光の玉が、朝食の上を飛び交い始めた。
その動きはどこか楽しげで、時にじゃれあっているようにも見える。
「いただきます」
四人がそれぞれの朝食に手を付け始める。だが、ルティエ以外、その光に注意を引かれている様子は無い。
そもそも、存在として認識されていない――見えていないのだ。
けれどそれは、彼女にとっては幼い頃からの日常だ。
「レナは学校どうなの? 友達とうまくやれてる?」
「別に…普通。そもそも学校は勉強するところでしょ」
「あらあら、そんなこと言って。先週、町でおさげの女の子と一緒に歩いているのを見たわよ」
「エリス姉、見てたの? あ、あれは……ただのクラスメイトだって」
「ふ~ん? なぁんだ、楽しそうで母さん安心した。……ん、このジャムおいしい!」
得意の裁縫と女手一つで三人の娘を育てたアンナ。早々に高い手芸技術で家計を支えるエリス。不器用ながらも家事を一手に担うルティエ。
自立した女性に囲まれているせいか、十五歳のレナは同年代と比べてしっかりしていた。よく言えば大人びており、悪く言えばませている。
「森で採れた木苺のジャムだよ。きれいに実っていたから、昨日たくさん作っちゃった」
「まあ本当。程よく甘酸っぱいのに口当たりも良くて……ルティはわたしたちの好みをよくわかってくれているわよね」
「いつ嫁に出しても恥ずかしくないわね」
「よ、嫁だなんて…相手もいないのに何言ってるの。それに、お母さんやお姉ちゃんみたいに器用で手に職がある人の方が……ずっとすごいよ」
「ま~た出た、ルティエの謙遜。……あ、このジャムにしなよ、ルチルへのお礼」
母の言葉に照れつつも、ルティエの表情が僅かに曇っていることに皆気が付いていた。
が、レナは先程の紅茶に話題を戻す。敢えてだった。
「ジャムを渡すのは良いんだけど……もっと素敵なお礼の方が良くないかな?」
小首を傾げながら紅茶にミルクを注ぎ、くるくると匙を揺らす。
まるで頭の中の迷いが、行ったり来たりしているように。
「ルチルちゃんなら、ルティが作ったものを一番喜ぶんじゃないかしら」
カップから目線を上げると、綺麗に朝食を平らげ口元を拭うエリスと目が合った。
その微笑みからは、自分の事のようにルティエを想う優しさと愛情が感じ取れた。
「そう…かな」
示し合わせたかのように深く頷く家族を不思議に思いながらも、そのあたたかい眼差しが背中を押してくれているような気がして。
(本当にそうだったら嬉しいなぁ)
内心はまんざらでもなさそうに、パンの最後のひとかけらを唇へと運ぶ。
胸の奥で小さく弾んだ期待を抱きしめながら、ルティエは早くも、大好きな親友と出会う街の景色を思い描いていた。




