9 英雄
階段に立っているということを差し置いても、男はかなりの大男だった。
壁にかかる歴代のエスター商会の代表者たちの大きな肖像画の額縁のてっぺんに、耳が触れそうだ。
そして軍人というには幾分、顔が綺麗過ぎた。
戦の達人というよりも、舞台役者ですと言われた方が納得できたかもしれない。
しかし、腕も脚もたくましく、襟元の階級章も袖元の階級線の刺繍も、さらにはボタンさえ金色を使っていることから、相当に高位の者であることが分かる。
軍の制服には厳格な規定があり、個人の好みで好き放題することは許されない。
単なる一兵卒ではないというのが、ぱっと見て取れた。
「何事ですか」
低く、落ち着いた静かな声が響く。
そのとき初めてアスタリヤは、男が意外にも若いことに気が付いた。
「おお、ジュール」
と、ロイスが喜色を滲ませて言った。
「お前も来ていたのか。何だ、女へのプレゼントか」
にちゃりと嫌な笑みを浮かべるロイスと対照的に、階段を降りてきたジュールは帽子をとって丁寧に礼をした。
「まあ、そんなようなところです」
貴族的な優雅な悦に入る仕草ではなく、丁寧ではあるがいささか無骨な仕草だ。
その男性的な率直さは、アスタリヤの目から見ても悪くなかった。
ロイスにも好ましく映ったのだろう。
ガハハッと先ほどの不機嫌を忘れたように、大声で笑った。
「先のダーシュの戦いの作戦は大当たりだったらしいじゃないか。いつ帰ったんだ」
「つい一昨日です」
「おお。またもや英雄のご帰還というわけだな! 魔法が使える連中の中でも、お前が抜群だと聞いている」
「恐れ入ります」
ジュールはちらりと少年を見やった。
「その子どもですが、何かしたのですか」
「私の靴に油をかけたのだよ」
「なんということでしょう。そういうことなら、私が処理しておきましょう」
アスタリヤはぞっとしてジュールを見た。
いったい何をする気だろう。
男たちの中で魔力がある者は、戦で重宝される。火や水や氷など、自由自在に自然現象を扱える人間は、存在そのものが武力だ。
魔力は男性的な攻撃性が基になっているのか、何故か女性にはほとんど発現しない。
革命派の政治家たちも、軍の有力者を大切に扱っているに違いない。
荒れ狂っていたロイスも、溜飲を下げた。
「おお、任せてもいいかね。いや、人任せでは示しがつくまい、やはり直々に私が打ち据えて――」
アスタリヤが口を挟む前に、ジュールが言った。
「時に閣下、あのパジェリ・コレクションが届いたらしいですよ」
「なんだと!? 幻のマルチェ・パジュリの未公開の絵か!? 本当に存在したのか」
「ええ。どうも長い間パジュリ家に保存してあったらしいのですが、そこの一人娘がようやく売却を決心したとかで」
「なんと。君は見たのか?」
「――いえ。話だけです。エスターの主人が上で興奮しながら喋っていましたよ」
「おい、そりゃ大変だ。もしかすると私が政治家連中の中では一番最初にパジェリ・コレクションを見る栄誉を得るってことにならんとも限らん。いや、きっとそうなるな! こうしちゃおれん、その猿を頼んだぞ、煮るなり焼くなり斬るなりして外に母親共々放り出しておけ」
「ええ。お任せください」
「おい、ティルト。案内せい!」
「は、はい――ええと、しかし」
言いよどんだティルトに、アスタリヤは小さく頷いて合図を送った。
ここは早いこと、ロイスを二階にあげて隔離してしまったほうがいい。
本来ならばアスタリヤを接待しようとしていただろう、エスター商会の筆頭は、鼻息荒く入って来たロイスに目を白黒させるに違いない。
そのためにはティルトに場をとりもって貰った方が良い。
アスタリヤとの短いアイコンタクトで、賢いティルトは全てを察したようだった。
ティルトの案内に連れられ、ロイスはどたどたと階段を上っていった。
アスタリヤは、産まれて初めて義侠心というものを感じていた。
いや、正確に言うと、産まれて死んで、また産まれて初めて、というわけではあるが――とにかく、この顔だけ綺麗な大男に好き放題されてたまるか、という意地に似たようなものが心中に沸き起こってきたのである。
「助けてやってはくれませんか?」
と、アスタリヤは男に話しかけた。
「誰だお前は――」
大男がうろんな目を向けた。
視線が交錯したとき、アスタリヤは不思議な感覚に驚いた。
この男にどこかで会ったことがある――?
いったいどこで見かけたのだろう。
もしかすると前世で、カミラのときに少しばかり囓った男かもしれない。
いや、それならば覚えているはずだ。
こんなに印象的な男ならば。
ジュールといっただろうか。
軍服の階級章が表すように野性的で野心家、それでいて遠くの深淵を見つめているような瞳――。
一度言葉を忘れたものの、子どもの母親のすすり泣きでアスタリヤは我に返った。
(人助けがしたいわけじゃないわ。寝覚めが悪いのが嫌なのよ)
と、ひとしれず言い訳めいたことを思いながら、アスタリヤはジュールの目をしっかりと見た。
「この子をどうなさるおつもりですか?」
「……適切な対処をする」
子どもの前に立ちはだかったアスタリヤは、じっとジュールを見た。
「拷問は好みませんの。わたくしはパジェリ家の長女、アスタリヤです。先ほど話していたコレクションですが、実はまだ全てを売ってはおりませんの。どこにも見せていない代物に、ご興味はおありですか?」
ジュールはじっとアスタリヤを見据えていた。
無言で近付いてきたジュールは、アスタリヤの両脇に手をいれると、ひょいっと抱えあげて、猫か何かをどけるように脇に置いた。
「ちょっと……」
抗議するアスタリヤを放って、ジュールは子どもの前に進み出た。
アスタリヤは、美貌のジュールが我慢ならない男に思えてきた。
少し実力のある有名な男だというからといって、心根が腐っていないわけではなかった。
母親は糸が切れたようにへたりこみ、子どもにいたっては、耳の痛みも忘れたように新進気鋭の将校をぼうっと見つめている。
ジュールはしゃがみ込み、幼い子どもと目を合わせた。
「いいか、坊主。この店にはああいう人間が時折来る。誰もかれもがお前を守ってくれるわけじゃない。周囲をよく見て、注意を怠るな」
「……」
「返事は」
「は、はい……」
「いいな、お前の母親は、お前の代わりに鞭打ちになろうとしたんだ。お前も何ができるのか、よく考えろ」
「はい」
「よし」
男は短く言うと、少年の頭に手袋をはめた大きな手をぽんぽんと当てた。
そして、背後で見守っていた母親に、懐から取り出した小瓶を渡した。
「塗ってやれ」
「あの……これは?」
「戦場で使っていた。治癒の魔力を込めてあるから、治りの早さは折り紙付きだ。俺の残りで悪いが」
「ジュール様の……!?」
まるで天上からの捧げ物を持つかのように、母親は薬瓶を両手で受け取り、胸元に抱きしめた。
「あ、有り難い……有り難いことです」
「早く店を出ろ。外に出たら子供ともども俺に鞭打たれたと触れ回っておけよ。さもないと、俺がロイスの爺さんに鞭打たれるはめになる」
母親は笑うような泣くような複雑な顔をして、ぺこりと頭を下げた。
子どもを抱き上げると、小走りにその場を後にした。
ジュールはふうと息をつくと、ちらりとアスタリヤを見やった。
この男は、ロイスの言いなりになるつもりは無かったのだ。
ジェインが、耳元に話しかけてきた。
「アスタリヤ様、向こうにお化粧品がございます。ドレスや宝飾品もーーロイス様が退室なさるまで、少し商品を眺めていてくださったらと、先ほどティルトさんが」
それはよい考えだった。
用意しなければならないものは無数にある。
アスタリヤは頷いて、店内へ繋がるドアへ向かった。
ジュールは馬車を待たせているのだろう、裏口に向かう。
そうして互いに会釈さえせずに、二人は別れた。
だが、それが最後でなく、始まりに過ぎなかったことはどちらも分かっていなかった。




