5 反逆
◇◇◇
ケロリと翌朝起きてきてたアスタリヤを見て、食堂に入ってきたフィリップとマリアは腰を抜かしそうになった。
「どういうことだ!?」
と、フィリップが怒鳴る。
「ねえ、生きてるわ。フィリップ、殺したはずでしょ?」
呆然とマリアが言う。小声のつもりなのだろうが、こちらにはばっちり聞こえている。
アスタリヤはいささか不満足だった。
夜も更けていたせいで買い物に行けなかったからだ。本当ならお気に入りの化粧品でメイクをしたかった。
そうでもしなければこのアスタリヤの顔は痩せすぎている。元は悪くないのに、必要な潤いが与えられていないし、手入れが十分とはいえない。
だけど、ジェインが使えそうなものを屋敷からかき集めてきたおかげで、なんとか最低限の体裁は整った。
ワードローブは、アスタリヤにしてみればぼろきれのように思えたが、まあまあ高級そうなものをまとった。
十年も経てば流行りも変わっているだろうと思うと、待ちきれなかった。
早く外に出て自由に買い物がしたい。
そのためには、このつまらない男女の縺れを早く解くに限る。
「良い朝ね」
と、アスタリヤは優雅に微笑んだ。
ここまで、アスタリヤの前に朝食のプレートは三枚出てきたが、そのたびに使用人を辞めさせた。
フィリップにすり寄ろうとしているのか、彼らはことごとくアスタリヤに余りに無礼な態度をとったのだ。
挨拶もなしに食器を乱雑に置こうとした使用人たちを、指先一本で絶望させることに、今のアスタリヤは何のためらいも無かった。
「ええと、アスタリヤ、な……なんだか、あなた、別人みたいね……?」
と、その場の全員が思っていることをマリアが言った。
「そうね。生まれ変わったような気持ちなの」
アスタリヤは溌剌としていた。
「ところでマリア。どうして朝から私の夫と腕を組んでいるの?」
マリアとフィリップが、ぎくりと顔を強ばらせた。
朝、一緒に起きて来ました、とでもいうような夫と友人の様子を見て何か思わない方が異常だ。
しかし、この状態でも噛みつかないと思っているのだろう。
アスタリヤのことを、歯の無い羊とでも捉えているに違いない。
しかし、マリアの面の皮は厚かった。
「まあ、アスタリヤ! 心配には及ばないわ。フィリップのお話が楽しくて、昨晩も喋り込んでしまっただけなの」
フィリップも我にかえったように口を開いた。
「失礼な口を慎むんだな、アスタリヤ。マリアさんはきちんとした淑女だ」
「いいえ。誤解されるような真似をしたのが良くなかったわ、フィリップ。いくら良いお友達とはいえ、あなたの奥さんはアスタリヤですもの。私も人妻だというのに、軽率な真似をしたわ」
とんだ茶番だ。
アスタリヤはティーを飲むのも忘れて、思わずフフフと声に出して笑った。
「おい。何を笑っているんだ」
フィリップが地を這うような低い声を出した。
これまでのアスタリヤは、そうすれば言うことを聞いたのだろう。
しかし、アスタリヤは――。
可哀想な、我慢強いアスタリヤは殺されてしまった。
貞淑で、夫の言うことを辛抱強く聞く、優しい女はもはやこの世にいない。
今、中に入っているのは、稀代の悪女である。
己の処刑シーンさえも見事に宗教画にまで高めて散った女が、その辺の男の恫喝で今更どうにかなるわけもない。
しかし、フィリップは眼前の女がまだ、気弱で己の意のままに動く、都合の良い存在だと思っているようだった。
「いいか、お前は伯爵家を存続させたいんだろう。俺は立派にその務めを果たしている。婿としてな! もう直系の男の跡継ぎがいない今、俺を失ったら伯爵家も終わりだ。分かってるだろう」
アスタリヤは、口紅がつくのもかまわずに、足の細いグラスに入った新鮮な水を一口飲んだ。
フィリップが苛々と足を踏みならした。
「お前、何か言ったらどうなんだ。せっかく尋ねてきてくれた友人のマリアに、失礼だと思わないのか。伯爵家の恥だぞ」
「そうね」
と、アスタリヤは言った。
「こんな『恥』はもう終わりにしましょう。ジェイン、お願い」
目元にくまを作ったメイドのジェインが、言われるがままに羊皮紙を持って入って来た。
ほぼ徹夜だったのだ。
ジェインはフィリップとマリアに一枚ずつ羊皮紙を渡した。
「な、何だ?」
「ちょっと、突然何なのよ」
アスタリヤは淡々と言った。
「あなたたちが不適切な交友をしていることは、私がこの目で見ましたわ。昨晩はお楽しみでしたね」
フィリップとマリアは顔を見合わせた。
アスタリヤが何か言ってくるとは思ってもみなかったのだ。
どれだけ相手を舐めてかかっているのだろう。
「浮気によって精神的な苦痛を得ました。離婚しますわ」
アスタリヤは宣言した。
フィリップは食い下がった。
「そんなことが通るとでも?」
「革命の後は、配偶者の不貞が分かり次第、離婚事由として認められるようになりましたわね」
元のアスタリヤの記憶はおぼろげだが頭の中にある。
裏付けてくれたのは部屋の書物だった。
今のアスタリヤには、もはや恐れるものは何も無かった。
フィリップはうう、と唸っていたが、アスタリヤの決心が固いと知って、尻尾を巻いた。
「財産は二分の一ずつだ。それでいいな」
元・アスタリヤは、知識のあるきちんとした女性だったのだろう。
彼女の記憶は、今のアスタリヤの中にも残っていた。
口からすらすらと言葉が出てくる。
「確かに現在の法律では、離婚すれば夫婦は共有財産を二分割するとなっておりますわね」
「どうだ、離婚すれば夫も失い、財産もなくなるんだぞ。この家に住めなくなってもいいのか」
「ええ、構いませんわ」
今のアスタリヤに一切のためらいは無かった。
フィリップは虚を突かれた顔をした。
「あなたとこれ以上同じ空気を吸い続けるくらいなら、財産をドブに捨てたってお釣りが来ますもの」
「なんだと……!? お前、調子に乗るなよ」
フィリップは怒りで顔がゆでだこのようになった。
しかし、アスタリヤは退かなかった。
「調子にのっていたのは貴方ではなくて? 我が家は伯爵家。男爵の貴方が、何回昇進すれば昇級できるか分からないものを。結婚したから格が上がったのでしょう。身分不相応というものよ。離婚したらまた男爵に戻るわね」
「な、な……」
「屋敷と土地は差し上げますわ。ですけれど、婚姻前に得た財産は分割の対象とはなりません。家財道具一式は、婚姻前に亡き父が譲渡してくれたもの。宝飾品や骨董の類いは私に権利があります」
「そんなもの……! いるか、お前が持っているのはガラクタばかりだろう! ガラスみたいなネックレスも、古臭いドレスも、今時誰も着けていない! ダサいんだ、お前みたいな女は! 俺がもらってやったっていうのに、つけあがりやがって」
マリアが割って入った。
「アスタリヤ、それは旦那様に対してあまりに酷いのではなくて。これはあなたの誤解なのよ」




