29 誤解
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練習中の兵士の中に分け入って、手づから稽古をつけてやる将軍なんてジュールくらいなものだ。
そういう人間だからこそ貴族だけでなく、市民から絶大な人気があるのだが、その日のジュールの機嫌は最悪だった。
正確に言えば、午前中までは通常通りだったのだ。しかし、午後になって書簡を届ける部下が一通の羊皮紙を手渡した後、眉間の皺がマルーナ海溝ほど深くなった。
「諸君。急用ができた。すまないが急遽、本邸に戻る。レイクを置いていくから」
軍部の稽古を見に、中心地までやってきていたジュールは、午後、手紙を見るなり、練習場の練兵官に言いつけて、マントの裾を翻し駆け足で戻っていった。
残された士官たちは、意外にも誰一人落胆しなかった。
むしろ興奮で目をぎらぎらと輝かせていた。
彼らは皆、口々に噂しあっていた。
「ついに、クーデタだ! 新なる革命のとき」
「ああ。ジュール様のあの顔を見たか。また税が上がった。税を減らし、市民のための国を作るという公約だったのに!」
「異を唱えれば粛正だ。今週も、市民が何人も断頭台の露と消えた」
市民に怒りは満ちていた。
それは、革命派が司っているはずの軍部そのものにも、じわりじわりと染み入って、今にも爆発寸前の不気味な静けさが漂っていた。
実際、王制の前よりも重い税を課し、悪法をどんどんと打ち立てる革命派の政権は、ぐらついていた。
ロイスの強行なやり方を、革命派であるはずの軍部の士官ひとりひとりはよく思っていなかった。
「俺の友人は貴族だったから、それだけの理由で処刑された」
「最近多いな。今月で何人殺されたんだ」
「俺の従兄弟は商人だったが、商業地域の税を増やされて首がまわらなくなって、そのまま廃業したよ。百年続いた店もこれで終いだ。生きがいを失ったかわいそうな従兄弟は生きる屍だよ」
「栄養失調の子どもを取り締まってみろっていうんだ。哀れでな……パンを盗んだやつを拷問しろだなんて、血も涙もないぜ。なんで俺たちがあいつの代わりに鬼にならないといけないんだ」
「それももう終わりだ。ジュール様は悪辣に腐敗した革命派のロイスたちを粛正し、新しい軍部を作られるのだ」
「俺はジュール様につくぞ」
「俺だって」
「僕だって」
「おいらだって」
「そうだ。ロイスに逆らえば、指先ひとつで殺されるかもしれない。だけど、今こそ俺たちは立ち上がるんだ!」
「そうだ! ロイスは市民の痛みを知らない! 現実の市民のいない理想の世界に生きている」
「そんな革命派は滅びてしまえばいい! 俺たち軍部の市民たちが、真なる平等を勝ち取るんだ……!」
「ああ、ジュール様の元で、俺たちは団結するッ……!」
「ロイスを倒せ」
「時が来たのだ! ジュール様は、重大な局面を秘密裏に迎え、重要な人物と最後の調整をなさっているのだ!」
「我ら、この身とこの心、平和のため、真の革命のため、ジュール様の元で派手に散らそうぞ!」
「おおおおおおっ!」
そんな士官たちの上空、二階席。
国家最高議長のベルチェは溜息をつきながら、彫刻の見事なバルコニーの日陰のベンチに腰を下ろしていた。
ここからが一番、兵士の動きをよく眺められるからだ。
日陰になる下から遠い暗がりであることと、帽子と眼鏡で変装していることから、ベルチェ本人とは誰も気付いていない。
それを良いことに、こうして視察をしているわけである。
「なんだか面白そうなことになっていますねぇ」
と、ベルチェは傍らの人物に話しかけた。
こちらも顔がすっぽりと隠れそうな、スカーフを巻いている。修道女のような長いドレスを着て、髪が長くて女のようだが、よく見ると、喉仏が見える。
「気付いたかい? これは本物の修道女の制服なんだよ! この間、サン・ジュノペに行ったろう? ほら、ジュール殿の初恋応援を兼ねた僕らの慰安旅行で。あの時の帰りに立ち寄った修道院で、仲良くなったシスターに貰ったのだ。背格好が僕とよく似ていてね。やはり背の高い女性というのは良い、なんてったってキスがしやすいからね」
ベルチェの口角は上がっていたが、目は笑っていなかった。
「なんの話です? 今はあなたの性癖はどうでもいいんですよ。あなた、変装するの楽しんでいるでしょう?」
女装したランヌ公爵は、しなっとレディらしいそぶりで口元に手を当てた。
「あら。アタクシは率先しているのよ。いついかなるときも、楽しむことを忘れちゃいけないわぁん」
「そのふざけた口調を今すぐおやめになってくださいねぇ。さもなければ、ここであなたの修道院服を剥ぎ取って、国外逃亡者がいますと階下に叫びますよ」
「ベルチェくん、君、そんなにせっかちで女性に嫌がられないかい? いいかい、動物と違って人間にはロマンがあるんだ。ロマンスだよ。女性の心は桃やリンゴと同じような生き物なのさ。皮を剥くまでに丹念に色づけてやらないとね、それが紳士というものだろう。よかったら僕が昔書いた、『はじめてのおんなのこのくどきかた入門 ~10歳になるまでに知っておきたいロマンスの名句30選~』を差し上げようか」
ベルチェは微笑み続けていたが、こめかみにはピクピク動く青い血管がルテティア市内の道路の四つ角のように浮かび上がっていた。
ランヌ公爵の修道服が剥ぎ取られる寸前、バルコニーにレイクが入って来た。
若いとはいえ天才の名をほしいままにしているレイクは、幹部なので軍部の修練所の全てに立ち入ることができる。
「失礼しました。いやあ、まずいことになったッス」
ベルチェは深呼吸し、青筋を引っ込めて頷いた。
「ああ。今、とてつもない勘違いが起こっているのが見えたよ。ジュール殿が引き返したのを、彼ら、クーデターの準備の最終調整だと思っている。この間の外出の件、兵士たちが何て呼んでいたか分かりますか? 『サン・ジュノペの謀議』だそうですよ!」
ランヌ公爵が頷いた。修道服のレースがふりふり揺れる。
「あの『ひまわり初デート大作戦』がまさかそう捉えられるとはなあ……確かにサン・ジュノペは昔はサンカ帝国だったり、王制時代に滅ぼされたりした歴史もあるし、まあ陰があるといえばそうなんだけどさ」
レイクが頭をかいた。
「ちょっと悪乗りしすぎましたかねぇ。あまりにジュール様がアスタリヤアスタリヤうるさいんで、さっさとモノにしちまえっていう幹部全員の意向だったんですけど」
ベルチェが真面目な顔になって言った。
「だけど、この感じはもう、引き返せないところまで来ていますね。あまりにロイスの失脚を望む声が多すぎる。市民たちの生活はボロボロで、新しいカリスマが必要なのは間違いないんです」
ランヌ公爵が扇子で口元を押さえながら言った。
「これは独り言なんだけどね。元・我が家、つまり今ジュール将校殿が住まわれている、東リュイーブルの元公爵邸の地下には、隠し財産があったんだ。ああ、持っていけばよかったな。総額は230万リーブルくらい。そこそこの宮殿が20個くらいは買える巨額の資産だよ。ああもったいなかったなぁ」
レイクがぎょっとした。
「え!? あの地下室ってワインセラーじゃないんですか!? そんなものがあるようにはとても……」
ランヌ公爵はパチンとウインクした。
「見えないだろう? 筆頭執事のピネ・コッセルと練りに練ったんだ。ピネと僕しか、地下室の入り口の開け方を知らない。国外に逃亡する時も、ピネは僕と一緒に来ずに、目と耳の悪い男のふりをしてこの国に残った。どちらが死んでも、どちらかがまだ生き残る。希望が少しでも残るようにと……彼は最高に優秀だった。まだ生きていていてくれればいいが」




