20 恋慕
その日、東リュイーブルの司令室には人が少なかった。
館の主のジュールは不在だ。
代わりに、並べた机には必死の形相の部下、ライが蝋燭を垂らしている。
蝋を垂らした後に、印章を押しつけると軍部のサインになるのだ。
この作業を午前中ずっとやっていたので、ライは神速で判を押している。まるで印章職人のようだ。
羊皮紙の束を持って入って来た部下、フィガーが生暖かい目で話しかけた。
「あー……一応尋ねるけれど、ジュール将校はどちらに〜?」
「どちらもあちらもない。今日もお城さ」
「昨日もだったな。どうするんだ、報告書になんて書けば良い。将校は古城の魔女にお熱ですってか」
「ジュール様が置いていったメモ書きをそのまま読むと、『あの古城のショコラは魅了の魔法がかけられている疑いがある。緊急で調査が必要』『あの古城のショコラの魅了魔法は強力である。本日も緊急で調査に赴く』」
「いや、なんだよショコラの魅了の魔法って……チョコレートが好きなだけじゃないか。いつまで続くんだ」
「昨日も今日も、きっと明日も明後日もさ! さすがに腹に据えかねて、レインが迎えに行ったんだが、あの方も帰って来ないし。どうせ疾風のジョナサンとかいうのに取り込まれてるんだろうぜ」
「ミーハーだもんな、レイン……ていうか本人も行きたそうだったもんな」
「ったく、昨日も戻ってから今日の分の仕事はちゃんとこなしてはいるといっても、朝っぱらからジュール様がいないと困るんだよなこっちは。確認事項だってたくさんあるんだぞ」
ぶつぶつ零しながら、ライはもぐもぐとサンドウィッチを片手に書類にサインをする。
「ああいう堅物の方ほどいったんタガが外れるとマズイんだって俺は前にも言ったじゃないか! 女遊びもしないで薬やら治療の本やらにばっかり時間と金を使ってさ」
フィガーがふんふんと頷いた。
「まあ、それで俺らも助かったようなもんだしなあ……ジュール様が治療してくれなかったら、この世にいないかもしれないし」
「全く、いくらアスタリヤ嬢がタイプだからって、あそこまで骨抜きにされるもんかね? まさか、本当に魔女だったりするんじゃないか。悪女カミラの霊がついてたりして」
「ばかだなー、お前は! そんなの聞かれたらジュール様に首をはねられるんじゃないか! あっはっはっは」
「違いないな! あっはっはっはっは」
この発言は意外にも、的を射ていた。
そう、思いっきり……。
◇◇◇
今日も今日とて、アスタリヤは自室でヨーガに励んでいた。
ごてごてと趣味じゃない宝石で飾り立てる王宮の儀式よりも、こうしてお気に入りに囲まれながら、ゆっくりと自分を磨くのはなんと愉しいことだろう。
そんな中、ジェインがどこかキラキラした目で報告にきた。
「ジュール様がまたいらっしゃっています」
「本当にお好きね」
「ええ、ええ……もう『好き』を体中から発されていて、見ているこちらが応援したくなるといいますか」
「ええ。あんなにショコラが好きだなんて、ちょっと驚きだわ」
ジェインはがっかりして眉を寄せた。
アスタリヤはヨーガに夢中だ。
敬愛する女主人は、自己研鑽に励んでいる。
それ自体は素晴らしいことなのだが、あの将校ジュールが応接間で待っているのだ。
ヨーガは魅力的な殿方を待たせてまでする価値があるのだろうか。
「ええ、まあ、そうなんですけど、あのう」
ジェインはもじもじした。
「ジュール様がお待ちなので、来ていただけたらと」
「私はこんな状態だから、食堂に案内して食べていただいたらいいわ。確かにうちの料理人は素晴らしいものね。それほど腕がいいという証明のようなものだわ。気に入ったならいつでも来て下さいとお伝えして」
「えーと、どっちかというと、本当に好きなのはショコラじゃないように思えるんですがぁ」
「ショコラじゃない? ああ、なるほど」
「あっ、アスタリヤ様もお察しになっておられたんですね!? さすがに、そうですよね! 毎日毎日来られて、あんなに熱っぽくぼんやり見つめていらっしゃったらそりゃあ」
「ええ。きっと本命は鶏肉のフリカッセね」
「……何の話です?」
ジェインはがっくりした。
アスタリヤ様は美しく、誰よりも聡く優しく、麗しい存在だ。しかし、唯一の欠点といえば――。
なぜジュール様の熱意が通じないのだろう?
ジュールが熱っぽい目を向けているなんて、誰が見ても分かるだろうに。
「昨日の昼食のフリカッセをべた褒めされていたでしょう。きっと気に入っていらっしゃるのよ。だけど、今日は牛肉の赤ワイン煮込みだから、どうかしら」
「あのう、そういうことではなくてですねぇ」
と、言いながら、ジェインはふと気が付いた。
アスタリヤ様はつい先日まで婚姻されていらしたのだ。
離縁されてすぐの御身。
それがどれだけ素晴らしい、国民全員が憧れるジュール将校のような男性だとしても、心が動かないのも無理はない。
(恋愛とか色恋のような全てのものが、怖くなっていらっしゃるのだ……! お可哀想なアスタリヤ様)
ジェインは自分の身勝手を恥じた。
アスタリヤ様を今こそお支えしなければならない。
それに比べれば、将校にショコラを差し上げて待たせるくらいは訳もない話だ。
そんな誤解がうまれているとは露も思わないアスタリヤは、単に男など眼中に無かった。
前世の言葉を借りれば、まさに『遊び飽きた』のだった。将校だろうが革命軍だろうが何だろうが、もはやアスタリヤの日課を邪魔することはできない。
片足をあげたポーズをしながら、アスタリヤは言った。
「そういえば、ティルトは次はいつ来るの?」
「ちょうど今日到着予定です。膨大な荷物と一緒に」
「まあ、良かったわ。舞踏会だとかそういうものに参加しなくてよくなったら、ドレスも宝石も全然要らなくなったわ。相手によって好みを変えたり、宮廷の儀式に合わせなくていいのは楽ね。自分の好きなものだけ身につければいいのだもの。こんなに快適なことはないわ」
「と、言いましても、アスタリヤ様のお召し物はもうワードローブのクローゼットに入り切りません」
「ジェイン、冗談でしょう? 一部屋、服の部屋を作るのよ。小さな箱に入れていたら、せっかくのドレスが可哀想でしょう」
ジェインはパチパチと瞬きをしたが、ああ、と合点した。
「そうですね! 壁の丸いあの第二応接室を服のお部屋にいたします!」
アスタリヤは満足そうに頷いた。
ジェインの常識はアスタリヤなのだ。
毎時間毎秒、素直なジェインの常識は更新されていく。
チリンチリンとベルが鳴った。
アスタリヤの自室に入ってきたのは老執事だ。
髭も髪も真っ白だが、彼はこの屋敷のバトラーのピネだ。
東リュイーブルの元公爵家に使えていたピネは、目が悪く、耳もほとんど聞こえないそぶりをしていたが、アスタリヤと数回筆談をするだけで、実は目も耳も現役だったことを白状した。
今では頼れるバトラーとして屋敷のために尽力してくれている。
ピネはきっちりと着込んだ執事服から懐中時計を取り出し、アスタリヤに報告した。
「アスタリヤ様。三分前に、門番から連絡がありまして、不審者を取り押さえたと。自分はアスタリヤの夫だとわめき散らしているようなのですが」
「夫?」
「とにかく会わせろとうるさいので、今、イズリーが首根っこを押さえて樽に詰めています」
「まあ。中のワインは無事?」
「そちらは――ええ、まあ。もしかすると、イズリーの腹の中かもしれませんが。お会いになられますか」
「そうねえ……イズちゃんも可哀想だし、行こうかしら」
「ご案内します。何せギャアギャア騒いで突入しようとするものですから、イズリーも下手に攻撃すると殺してしまいそうだと怯えているようです」
アスタリヤが到着すると、門のところにはイズリーがぐったりして柱にもたれかかっていた。
「イズちゃん! どうしたの」
アスタリヤはイズリーのことを大きな獣か何かのように思っているふしがあった。
あの屈強なイズリーがぐったりしている。
熱中症か何かかもしれない。
「イズちゃん、大丈夫? お水飲む?」
「あ、あんたか……すまん、俺には理解できない生き物で……成人のくせにギャアギャアギャアギャア、巣作り中のカラスよりうるせえ……とりあえず樽に詰めて転がして、門番小屋にほっぽったが……あんなのと同じ空間にいたらおかしくなる……」
「まあ。ごめんなさいね」
「いや、あんたのせいじゃねえ……というか、あれと暮らしてたんだったら離縁して大正解だな……」
イズリーに気付け薬代わりの超高級ワインを渡し、アスタリヤは小屋に入った。
「アスタリヤか!」
それは、フィリップだった。
樽に首から下を入れられて拘束されている。
「おい。早く出せ」
「何のご用件でしょう」
「おい! アスタリヤ! ふざけるなよ。許してやるから早く戻って来い。お前がやらないから、領民も経営が分からずに困っている。屋敷の修繕も書類のありかも分からん。責任を果たせ、妻だろう」
「ふざけているのは貴方ですわ」
アスタリヤはぴしゃりと言った。
「貴方と私は正式に他人なのです。ほぼ無一文だったあなたに、パジェリの城も領地も差し上げた。それ以上何を望むというのですか」
「た、他人ではないだろう。お前は私の妻だ」
「元妻です。今は違いますわ」
「俺はリュイーブルまでわざわざ迎えに来たんだぞ。そんな冷たいことを言うなんて、お前には人の心がないのか」
「人の心がある人間は、妻の友人と浮気などしませんわ」
真っ赤になったフィリップは樽から這い出てきた。
ジェインが悲鳴をあげて、門柱のところにいるイズリーを呼びに行く。
アスタリヤは可哀想なものを見る目で、フィリップを見下ろした。
「――哀れな男」
「な、何っ?」
「下位の男爵から成り上がろうと、名家の子女のアスタリヤと結婚したのでしょう。だけど、伯爵家とただの男爵家の自分との違いに戸惑い、育ちの違いを見せつけられた。乗り越えるでもなく、学ぶでもなく、あなたは自分よりも下の平民出身の女と浮気をしたのね」
「何なんだ、お前は! 本当にアスタリヤなのか!?」
「もしも違う、と言ったら?」
「何だと!?」
「カミラ=バトリー。あなたが殺したアスタリヤ嬢の体に入った悪女よ」
ガタンッと後ろで物音がしたので、アスタリヤは振り返った。
そこには、ぽかん、と口を開けてなんとも言えない顔をしたジュールが、呆然として立っていた。
「カミラ……?」
間違えたわ、と、アスタリヤは本能的に察した。
何か押してはいけないスイッチを押したような感覚だった。




