19 憤怒
「あの雌猫ッ!」
元夫フィリップは怒り狂っていた。
貴族の仲間たちは酒を酌み交わしながら聞いているが、どこか面白がっている。
今日は鹿狩りだというのに、ちっとも盛り上がらない。
肝心の鹿にも逃げられて、フィリップはご機嫌ななめだった。
「全く少しの浮気だというのに、馬鹿げてる。拗ねて出て行ったんだよ」
と、言うフィリップに、狩り場に集まった貴族の男たちは同情の笑みを浮かべた。
「それで、奥方は離縁を希望しているのか? そんな悪妻ならさっさと別れてやったらどうだ」
「ああ。マリア嬢とのことはきっかけだったんだろ。ただの火遊びでそんなに怒るなんて」
「ヒステリー気味の女はずっと付き合うのは疲れるぞ。俺の義理の妹がそうなんだ。キイキイわめき立てるから、弟はまいってしまったよ」
それぞれの貴族の子弟たちが談笑する中で、フィリップはギリギリと唇を噛んでいた。
「ああ。アスタリヤはすぐにへそをまげるんだ。たいした美人でもないくせに」
「そうなのか? あまり社交界には出ないから、パジェリ家の秘宝だという噂の奥方だったろう」
「いや、ただの地味な女さ。それを勘違いしてるんだよ」
フィリップは吐き捨てるように言った。
確かにアスタリヤは勘違いをしているのだ。全く馬鹿げている。
「男なら浮気するのが当然だろう。少しくらい目をつぶればいいんだ」
「まあ……」
男たちは意味ありげに笑った。
貴族の子弟たちならば理解している。
一人娘しかいなかった名門のパジェリ家が、男爵家から婿をとったことを。
それがフィリップに他ならないのだが、彼は何か勘違いをしている。
男ならばではなく、王や公爵ならば――というならば、間違ってもない。
跡継ぎがなければ断絶する危機よりも、他で種を育む可能性があるならばそちらに賭ける。
それもまた血を続ける義務のある高位な貴族の選択肢にはなりうる。
しかし、パジェリ家の場合は、アスタリヤの血が重要なのだ。
フィリップではない。
彼らは小さな違和感を、紳士らしい曖昧な微笑で流そうとした。
しかし、当人のフィリップは蒸し返した。
「キングリー伯爵家から使者が来たんだ。慰謝料を減額する代わりに、もうマリアに近付かないように誓約書を送れと。キングリーが裁判所に責任をもって出すというんだ。信じられるか? あのおいぼれキングリーのじいさんがマリアを満足させられないから、俺が面倒を見てやったようなもんだろ?」
「あー、フィリップ。間違いじゃなかったら、今言ったのは、キングリー伯爵のことか?」
「そうだ。哀れなマリアはそのじいさんと無理矢理! 結婚させられたんだ。被害者だよ」
貴族たちはまた顔を見合わせた。
キングリーの妻マリアの盛大な結婚式は派手だったので全員が覚えていた。
べたべたとわざとらしく老人にくっついていた様子から見て、財産目当ては誰の目にも明らかだった。
無理矢理結婚させられたにしては、ウエディングドレスにはよく育った貝ほどある宝石がごてごてつけられていた。
ただ、やり手のキングリー伯爵はおそらくそんなことは理解した上で結婚しているのではないか、ともっぱらの噂だったが。
「とにかく、アスタリヤは調子にのっている! 俺が少しばかりマリアと仲が良いからって勝手に嫉妬して、事を大きくしたんだ」
「だけど、フィリップ。君はどうするんだい? 離縁してしまえば、パジェリ家とは縁もゆかりも無い男になるんだろう。男爵の館に戻るのか?」
「いいや。男爵家はもうとっくの昔に売却した。俺がパジェリの屋敷を貰ったんだ」
「何!? あのパジェリ家を?」
「そうだ。財産分与で、結婚したら財産は夫婦それぞれで半分に分けるとあるだろう。俺が法にうといと思って、アスタリヤは油断したんだ」
「はあ……古いとはいえ、あの名門のパジェリ家を手放したのか……」
「ああ。身の回りの品と、先代に貰ったがらくたや骨董品を持って出て行ったよ。女は持ち物が多いな。馬車が三台もやってきた」
「骨董品。まさか、パジェリのコレクションのことか!?」
「さあ、そういう美術だとかは俺の趣味ではないから分からん。とにかくそれを売り払って、金を作って、古い城を買ったようだ」
その場の男性貴族の全員が、アスタリヤ・パジェリに同情した。
名門伯爵家の一人娘として育てられ、内向的な性格から社交界にも出られず、縁故のあった男爵家から婿をとった。
父も母も亡くしたアスタリヤは、フィリップと離縁するのはその性格的に非常に大きな決断だっただろう。
その上、よく知らない男と結婚してまで守ろうとしていたパジェリの屋敷までもフィリップにとられたのだ。
「しかし、名門パジェリとはいっても、屋敷はたいした値段にもならないらしい。仕方ないから修繕しながら住んでいるよ。キングリーが莫大な慰謝料をふっかけてきたんだ。全くふざけてるよ。マリアもキングリーの屋敷から出られないらしくて会えてないんだ」
「なあ、フィリップ。そんなことになってまで、まだマリア嬢に未練があるのか? ただの火遊びじゃなかったのか」
「勿論遊びさ。だけど、勝手に誰かに遊びを止められるのは我慢ならないんだ。俺とマリアは実際、アスタリヤと結婚するよりも前から運命を感じていたからな」
「ん? そうなるともう何年も関係があったのか? それじゃ火遊びというより……」
「だって本妻はアスタリヤだ。何の問題もないだろ? 屋敷のことはほとんどアスタリヤが仕切ってたから、俺はどこに何の書類があるかなんて分からない。あいつ、嫌がらせのつもりなんだよ。全く連絡もないし。さっさと意地をはるのをやめて戻ってくればいいのに」
それだけの会話だったが、聡明な男性貴族たちは、完全にパジェリ家の内情を理解した。
領地の運営も、屋敷の整理も、全てアスタリヤが取り仕切っていたのだろう。
貴族としての義務である社交ができないのを引け目に感じたアスタリヤは、様々な目立たない仕事を一手に引き受けた。
そして、フィリップはパーティーやサロンで派手に遊び、見た目や話しぶりが良いというだけで、実際の貴族の責務らしいことは一切していなかったのだ。
結婚式よりも前から続いていた女との浮気を知って、潔く身を退いた。
どう見ても、フィリップがやり過ぎだ。
一番面倒見のよい年長の貴族が、フィリップに親しげに話しかけた。
「なあ、今からでも謝ってみたらどうだ。誠心誠意、伝えればまた元サヤに戻れるかもしれないだろう」
「馬鹿げてる! 謝るのはアスタリヤだ」
その場の全員が目が飛び出そうになった。
この後に及んで、なぜアスタリヤが謝るのか。
「な、……なぜ、アスタリヤ嬢が君に謝罪を?」
「俺を不快にさせただろ。それだけで万死に値する」
フィリップは本気だった。
「俺がマリアとどうなろうと、妻なんだから堂々としていればいいんだ」
「ああー……君は実はアスタリヤ嬢とは、うまくいってなかったのか」
「うまくいってたさ! あいつが浮気に気付くまでは。全く馬鹿な女だよ。殺しても死なないような女だ」
その一言に、貴族たちはまた意味深な瞬きをした。
まさか手に掛けようとしたのではないだろうな? という、不穏な予想が各々の脳裏によぎっていた。
「まあ、アスタリヤだって本当に俺と離縁させられるなんて思ってないさ。離婚届だって口だけで、実は出していないに決まっている。まだ俺のことが好きなんだよ。ああいう女は……きっともうすぐ後悔して、なけなしの財産もなくなって、泣きながら『俺の家』に来るに違いない。そうなったら、優しい俺はアスタリヤの愚行を許してまた婚姻を結んでもいい」
貴族たちは絶句した。
あまりにも自分勝手過ぎる論理だ。
しかし、一人だけ口を開いた者がいた。
それは空気が読めないことで有名な、ゴシップが何より好物の子爵令息だった。
「フィリップさん、お気を悪くされないで欲しいので黙っていたのですが、アスタリヤ嬢のゴシップがあるのですよ」
「何?」
「年若く、見目麗しいエスター商会の跡継ぎが、朝な夕なとアスタリヤ嬢の元を訪れていると。確かティルトと申しましたかね」
「な……いや、それはない。あのアスタリヤがエスター商会で買い物をするはずもない」
「いいえ。都で流行の物は、菓子だろうが服だろうが全て取り寄せ、使用人も素晴らしく質がいいらしいと。らしい、というのは誰も招待されないからなのです」
「招待されない城に、なぜティルトとかいう男が来るのだ」
「だ、か、ら、ゴシップなのです」
「そんな、馬鹿げている。あの地味なアスタリヤだぞ? 使用人だって、どこにそんな金が」
気の毒そうに、同時に少しばかり嘲笑も含んで、ある貴族が教えた。
「フィリップ。君は知らなかったかもしれないけれど――パジェリ・コレクションといえば教養のある貴族の中では常識だよ。
パジェリ家に伝わる秘宝だ。秘密主義な先代と、口数の少ないアスタリヤ嬢からは、誰もその存在を聞かされることはなかった。
だから、本当に存在するなんて――どう考えても、その骨董品というのは、パジェリの秘宝だよ」
「は? そんなこと一言も言ってなかったぞ」
「古くとも城を買うなんて、貴族令嬢の小遣い程度で踏み切れるものじゃない。きっと、パジェリのコレクションは存在したんだ。アスタリヤ嬢はそれを元出に、新しい人生を始めようとしてるんじゃないか」
フィリップは、誰に言うとも無く呟いた。
「そんな――そんなこと……許さないぞ」
フィリップはポトリと猟銃を取り落とした。
老いた使用人が慌てて拾い上げたが、銃身にはべったり泥がついており、時既に遅しだった。
そう、各々の時計は既に動き出していたのである。




