2 転生
◇◇◇
さて、革命軍が王城を占拠し、ルテティアを牛耳ってから、ちょうど十年後のことである。
都の民衆は恐怖政治におびえていた。
今の議会は年々過激になり、目をつけられた者は反論もできずギロチンに送られるのだ。
国民たちは苦境に耐え続けながら、新たな指導者を待っていた。
伝統的なパジュリ伯爵家の屋敷では、小さな事件が持ち上がっていた。
「う……痛ッ……? 何、あら? まだ死ねないの? 本当に革命って悪趣味ね」
うめきながら、悪女は目を開けた。
ギロチン台にはうつ伏せで乗ったはずだ。
人道的観点から、魔力で感覚を鈍麻させ、痛みを取ってくれるはずだった。
しかし、今はどう考えても、背中に感覚がある。
あの処刑人、真面目そうな顔をして、わざと感覚鈍麻の魔法をかけずにいたのではないか?
首が痛いわけでもなく、明確に胃のあたりが気持ち悪い。
処刑の夢を見ていたのだろうか。
群衆の声の震えも、久々の太陽のまぶしさも、あんなにリアルで生々しい夢を――。
女は起き上がった。
感覚がある。
やけに手が乾燥している。
「あら?」
ぴかぴかに磨いてオイルを塗っていた爪は、ささくれだっている。
指輪もアクセサリーもつけていない。
処刑の直前に警邏たちに没収されるまで好きなものをつけていたはずなのに。
これは本当に、自分なのだろうか?
周りを見渡すと、木と漆喰と彫刻で縁取られた壁が見えた。
薄暗い。
ベッドからそっと立ち上がると、胃のあたりが重苦しかった。
「水はないかしら」
人の気配はない。
ベッドサイドの木製チェストの上にも、水差しも何も無い。
裸足で床に立つと、ベッドの下の何かを踏んづけた。
「これは……」
ぼろぼろになった表紙の鹿革の手帳だ。
中身を見てみると、表紙の裏側に名前が刻印してあった。
よっぽど大切なものだったのかもしれない。
「名前……アスタリヤ?」
中を見ると、それは日記のようだった。
○月○日
今日はフィリップ様との結婚式だった。
とても緊張したが、良い妻になろうと思う。
友人のマーガレットやフィル、マリアも来てくれた。
これでパジュリ伯爵家も安泰だ。
「夢にしては感覚もあるし、変な感じね。あら、たくさん書いてあるわ。まあ、パジュリというと、あのパジュリ家ね。古典画家の大巨匠、マルチェ・パジュリの系譜だわ」
□月□日
結婚してからフィリップ様は愛を告げてくれなくなった。私は不器量で、権威しかなく、何一つうまくできない、まるで駄目な女だと罵ってくる。
「まあ。自分に自信がないから相手を攻撃する、幼稚な男のやり口ね。それにしてもこの日記の持ち主は、どうしてこんなに自信が無いのかしら? 伯爵家の当主でしょうに」
◯月◯日
パジュリの秘宝は本当にあるのか、とフィリップ様に尋ねられた。
素直に頷けなかった私を、神よお許しください。
本当のことを告げれば、あの人が居なくなってしまうような気がして。
「あら、パジュリの秘宝って……マルチェ・コレクションのこと? 驚いたわ。本当に存在したの? 私も欲しい欲しいと言ったけれど、国王さえも探せなくて、ただの伝説ということになったのよね。今の価格だと一枚幾らになるのかしら。まさか、それが、ここに?」
日記には続きがあった。
△月△日
フィリップ様との間にはなかなか子ができない。家に帰ってこない日もある。
もし産まれても俺は関係ないと言われた。本当に彼とやっていけるのか。
男爵家から伯爵になったフィリップ様は、財産と家柄が欲しかったんだろうか。
マルチェのコレクションについて、尋ねるときだけ微笑んでいる。
あの人は本当に人間なのかしら。
「うわあ。最低ねえ。もちろん財産目当てでしょうけど」
女はせせら笑った。
宮廷のいざこざの渦中にいた身とすれば、こんなのはゴシップですら無い。
あまりの程度のくだらなさに笑いが出たというだけだった。
早くどうにかすればいいのに、日記のアスタリヤはまだフィリップに心残りがあるらしい。
◇月◇日
女もののショールが屋敷にあった。
あんなに高級なもの、貴族のそれなりの身分の女性でしかあり得ない。
でも、あの香水に覚えがある。
忘れるものか!
結婚式でつけていたのだから。
マリアだ。
友人のマリアのもの。
間違いであってくれたらいい。
そんなわけがないのに。
□月□日
フィリップ様がうちの財産目当てに結婚したとサロンで触れ回っていたらしい。そうマリアが話しに来た。本当か分からないけれど、どちらにしても最低だ。
私はもう社交界には行けない。どうして恥知らずの夫と別れられないのだろう。
こんなに魅力がない女なんていないと言われた。私はきれいじゃない。
「洗脳されてるのかしら。典型的な自信が無いから親しい女性を蔑むタイプの男ね。時間の無駄だわ。友人のものを奪うこのマリアという女は、わざとね。香水を結婚式につけてくるなんて、宣戦布告だわ」
☆月☆日
フィリップ様のシャツに口紅がついている。落とそうともしない。相変わらずマリアの香水も匂わせてくる。
洗濯女に任せるのも情けない。
フィリップ様は領地の経営はうまくない。財政は厳しいし、農民たちは不満そうにわが家の悪口を言っている。一揆が起きないといいけど。
「平民の心は離れているのかしら? なんだかきな臭いわね」
▽月▽日
財政を立て直すために、家宝のコレクションを売ろうか迷っている。けれど、もしそうすれば、フィリップ様が嗅ぎつけるだろう。とんでもないスキャンダルや噂になる。勇気が出ない。
フィリップ様には教えていないけれど、亡きお父様が私に譲渡してくださったのだ。
地下へは、一階の厨房の奥のワインセラーの壁裏からしか行けないし、二人がかりじゃないと扉は閉まって中から出られなくなる。
いつかフィリップ様と和解して、心から信じあえるようになれば、一緒にコレクションを眺めたい。
私さえ我慢すれば、きっと良くなる日が来る。
「あーあ、そんな日はどう考えても来ないわよぉ……なあに、この辛気くさい日記は。誰のもの?」
×月×日
絶望。絶望。絶望。
信じられない。
まさか本当にフィリップ様とマリアが……。
舞踏会でキスしていた。もう何もかも嫌になった。
マリアは今のご主人に嫁いでから貴族になった元平民だ。お互いに夫も妻もいる身だというのに、フィリップ様はどうしてこんな仕打ちをなさるのか。
「まあお気の毒。あら、次で最後かしら」
☆月☆日
マリアは結婚式のあとからフィリップ様と関係を持っていた。
使用人たちは知っていたはずなのに、誰も。
私だけが知らなかった。
きっと友達も、みんな知っていたんだわ。
私だけが、まさかフィリップ様が――マリアとなんて。いいえ、香水をかいだ時に気付いていたんだわ。本当は信じたくなくて、現実から目を背けていただけ。
こんなに傷つくなら、もう消えてしまいたい。
だけど、お父様たちが遺した財産だけは、あの人たちに渡したくない。
離縁すれば財産を分割しなければいけない。本当なら、結婚前に貰ったあの宝物は私だけのもの。置いておくなら私がこの屋敷を貰わなければならない。
どうすればいいのかしら。屋敷は古いし、土地も二束三文。本当に価値があるのはーー。
インクで塗りつぶされたような跡で続きは見えなかった。
日記はそこで途絶えていた。
が、ぱらぱらめくると、異変があった。
裏表紙に殴り書きのように、文字がある。
万年筆のインクに指をつけたのかもしれない。
緊迫した字で書き付けてあった。
毒 フィリップに もらった酒
わたし 殺された
あのひとたちをばっして
「……なんだか、亡くなる間際の遺書みたいねぇ」
女はやれやれ、と溜息をついた。
「殺された? このフィリップとかいう男に? なかなか物騒ね。あら、鏡があるわ」
埃っぽくはあるが、きれいな縁取りの鏡があった。
女は反射的に近付いた。
自分の美貌と宝飾品とがきらめくのを見るのが快楽だったカミラの癖は、処刑のために幽閉されたからといってすぐには抜けなかった。
「あら」
やつれ気味の頬。
化粧っ気のない顔。
派手ではないが、洗練された品の良い目元。
そして、明らかに元のカミラの赤毛とは違う、ブロンドの髪。
空色と緑色が入り混じったような青い瞳。
さすがの女も声をあげた。
「これは――」
アスタリヤ=ターシェ=デ=パジュリ。
鏡に映っていたのは、パジュリ伯爵家の一人娘であり、この日記の不幸の結婚の張本人に違いなかった。




