八、七呉と伽耶
座敷の中は静かな熱狂に満ちている。太鼓や横笛を控えめに奏でる芸者衆と、固唾をのんで見守る芸妓たち。彼らの前で投扇興勝負の第二試合が、今まさに始まろうとしていた。
「やあ、負けてしまったな。このうえは呑むしかない」
「吉右衛門様、お水もお飲みくださいませ」
完全に観戦体勢に入った八塩守と、そんな彼に酌をしつつも釘をさす花路の声が聞こえる。
七呉はそんな彼らにかまわず、西陣営となった鎮北守や伽耶と向き合っていた。隣には同じ東陣営の虎尉守がいる。
初戦と同じく、まず第一投は西陣営の鎮北守だ。席に着いた彼は、無造作に扇を放った。
翻った扇は『蝶』を落とすことなく、『枕』の向かって右手側に要を上にしてかかる。
「藤袴、五点です」
感慨も見せず席を立つ鎮北守に代わって、次は東陣営、虎尉守の第一投。
空を切った扇が『蝶』を落とした後、鎮北守の藤袴のように『枕』右手に寄り掛かる。
「こちらは須磨!十点でございます」
五点先取だ、と七呉が思ったのもつかの間。西の伽耶の放った扇が『蝶』の錘を枕に引っ掛け、扇自体はその枕の裏に立った。
手元の一覧表を見るまでもなく、高得点の銘だと解る。
「蜻蛉、四十五点です」
「負けませんわよ」
振り返った伽耶の、本気の眼光に七呉は思わず息を呑んでいた。
落ち着け、と自らに言い聞かせて、彼女が立った席につく。扇を構えて、放つ。が、手元がわずかに狂った。
『蝶』を『枕』から落とした扇が、そのままぱさりと『蝶』の傍らへ落ちる。
「うっ……」
「早蕨、四点でございますね」
続く鎮北守の第二投。彼がやはり無造作に放った扇は『蝶』を『枕』の上で倒したかと思うと、開ききったまま『枕』の手前にかかった。
「……」
「若菜の下、七点です」
もはや結果にも興味がないというかのように、読み上げられる点数を待たず鎮北守は席を立つ。
続く第二投目の虎尉守。彼はそこで初めて伽耶を一瞥したかと思うと、席に付いた。伽耶はその視線に一瞬たじろいだように肩をゆらしたが、次いで、その目を見開くことになる。
虎尉守の投げた扇は、『枕』の向かって左手に『蝶』の錘を引っ掛け、扇自体はその反対――『枕』の右手へ、下向きに落ちた。
「おお、藤裏葉!四十五点でございます」
東が二点、先行した。
浅く唇を噛んだ伽耶が、虎尉守の退いた席につく。息を吸い込み、右手の袖口を左手で抑えながら、覚悟を決めた表情で扇を放った。
果たして扇は『蝶』を落とし、『枕』の右手へ寄り掛かるように着地する。
「――――」
「須磨。十点です……西陣営、計六十七点ですね」
「東は現在五十九点。八点差か。さて、どうする?」
杯を口元に運びながら、八塩守が笑みを深めて席へ移動する七呉の背中を見つめる。芸妓たちも息を潜める中、瀬筒守の三味線が掻き鳴らされ、止まった。七呉の右手が扇を構え、左手がその袖を引き、腕の位置を微調整する。
その動きを見た伽耶が、はっと目を見開いた。
「その構え――――」
「使わせてもらいました」
扇が放たれる。『蝶』を落として翻った扇は、『枕』の右手へ要を上にして寄り掛かった。
「須磨!十点、にて合計六十九点!東陣営の勝利でございます~!!」
「っふう……」
わずか二点差だったが、勝利は勝利。一か八かの賭けではあったが、直前に見た伽耶の動きを真似ることで、七呉は何とか場を凌ぐことに成功した。杯を手放した八塩守から拍手が送られ、芸妓たちが大盛り上がりする声が聞こえるが、額の汗を拭うことに忙しい七呉はそれどころではなかった。
心臓が早鐘を打っている。額の汗を拭い終えた七呉は立ち上がり、同じく立ってこちらを見ていた伽耶としばし見つめ合った。
伽耶はフン、と鼻を鳴らして身を翻したが、その顔は微かに笑っていた。
「勝ちなさいな」
それだけを言い残し、鎮北守の隣へと戻っていく。
鎮北守もまた、伽耶が自分の隣に戻ったのを確認するように彼女を見遣ると、何も言わず彼女の杯へ自分の瓶子から酒を注いだ。
鎮北守たちの静けさと対照的に、調子よく掻き鳴らされる三味線の音へ太鼓、横笛が賑やかに追従する。
「さあさあ最終戦はまさかのこのお二人!西、虎尉守月山虎次郎廣光!!東、千代見の七呉!!」
「文字通りの勝ち逃げか、はたまた勝ち取りなるか、の一戦ですね」
囃し立てる瀬筒守の横で、白水守が興味深げに、というよりも面白げな表情を隠しもせずに呟く。立ち上がった虎尉守と七呉は、体格差は歴然としていながら互いに一歩も引く気はないという態度も露に睨み合う。
「負けんぞ」
「こっちの台詞です」
その時、すらりと座敷の襖が開いた。
「――――やあ、いいところに戻ってきたな、三岐守」
羽鶴を連れた三岐守へ八塩守が手招きする。三岐守は睨み合う七呉らに軽く眉を上げつつも、あらためて人と膳の間を縫い自分たちの席へ腰を下ろした。一層観戦席が賑わう中、最終戦の火蓋が切られようとしていた。
先攻は西、虎尉守。先ほどまでの鉄面皮が嘘のように、彼は七呉に向かって笑みを一つ向けると席に付いた。そして徐に口を開く。
「俺の何が気に食わない?七呉」
「夕顔、八点です」
放った扇は『蝶』を載せて、『枕』の傍らに落ちていた。
その様子を見ながら、七呉は息を整えて席に付く。直される『蝶』を睨みつけ、扇を放つ。
扇は『蝶』を落としたものの、『蝶』は床に倒れ、扇もまた『枕』を挟んだ反対側へと伏した。
「そうですね、言わせていただくなら」
「末摘花、二点でございます!」
チッと舌打ちする七呉に笑って、二度目の扇を放つ虎尉守。気負いのない扇の一投は『蝶』を落とし、そのまま翻って『枕』の右手へ、要を上にして寄り掛かった。
「『なら』、なんだ」
「須磨、十点です。合計十八点」
十六点差。これまでのなかでも最も点差が開いている。銘一覧の刷り物を手放した七呉は、伽耶をはじめとする場の全員の注目を浴びながら、それでも怯むどころか額に青筋を立てていた。衣擦れの音も高く席に付き、扇を構えたかと思うと。
「こんなとこでそんなこと言わせようとするところ、ですよ!!」
放つ。扇は勢いよく『蝶』を舞わせ、『蝶』が床へと降り立つと同時に、扇もまた要を下にして『枕』の左手角へかかった。
「――――た、玉鬘!二十五点!!と、いうことは……計二十七点!七呉嬢の勝利!!勝利です!!」
「やってやりましたわね!!―――っこほん」
掻き鳴らされる三味線の音色の中、思わず膝立ちになって握りこぶしを振り上げた伽耶だったが、我に返ると、慌てて姿勢を正した。しかし鎮北守は、そんな彼女を横目で微かに笑いながら見ている。一方、七呉は苦笑している虎尉守へ、べっと舌を出して見せた。
そんな様子に爆笑しながら手を叩いているのは八塩守で、きゃあきゃあと大盛り上がりを見せているのは芸妓たちである。三岐守も惜しみない拍手を送り、白水守もあの薄い笑みで静かに拍手を送っていた。瀬筒守は言わずもがなである。
すまし顔を取り戻した伽耶に向かってつかつか歩み寄っていった七呉は、ふん、と鼻を鳴らして見せた。伽耶がそうしたように。
「勝ちましたよ」
「当然のことに無い胸張らないでくださる?」
「なんか余計な一言つきませんでした!?ないけどさあ!」
途端にやいのやいのと始まる女子同士のやり取りに、勝負見物の緊張から解放された芸妓たちも群がる。勝利の一献を、と持たされた杯や次々に差し出される瓶子に、御座敷遊びの約束事へ慣れていない七呉は途端に眉を下げていた。
その様子を見守りつつ、つま先を席へと向けた虎尉守にかかる声がある。
「見事な振られっぷりだな。月山」
再び杯をとった八塩守が、まだ空のそれをくいと掲げて見せた。
そんな彼に返る虎尉守の視線は、七呉に対するそれとは比べ物にならないほど冷めている。
「生憎、まだ振られたわけじゃない」
「ほう?」
「『場所を考えろ』、そう言われただけだ。誰かさんのおかげでな」
皮肉気な一言にも、新たな酒が注がれた杯を見る八塩守の笑みは変わらない。
「であれば、早急に場を整えないとなあ」
「こちらでする。せいぜい高座で黙って見てろ若殿様」
「虎尉守殿、八塩守殿に向かってそれは余りに――」
六将家筆頭の御曹司に対し、おおよそ将家麾下の者が口にしていい言葉ではなかった。苦言を呈しかけた白水守だったが、杯を持たぬ手をひらりと手を振って、八塩守はその先を制しつつ杯を干す。
「今宵は無礼講と言ったのは僕だもの。さあさ、勝者の姫にお祝いだ!」
ぱん、と打たれた手を合図に、再び始まる楽器の音色と、新たに運び込まれる膳の音や、片づけられる空になった瓶子の音が交じり合い、饗宴の夜が更けていく。
七呉もようやく、自分の皿に盛りつけられた料理を味わうことができたが、芸妓たちの興味津々な質問攻めからは逃れられなかった。主に拵方という仕事についてや、虎尉守との関係などについて。特に後者は内心冷や汗をかきつつ答えるはめになったのだが、ついぞ右隣のすまし顔から助け舟は出なかった。
夜半、八塩守のお開き宣言と共に遊興楼閣からようやく解放された七呉たちは、虎尉守らに送られて陣内の夜道を歩いていた。
さして遠い道でもなかったが、虎尉守と鎮北守が頑として送ると言ってきかないので、七呉たちも大人しく彼らの後をついていく。
寮に着いたときには、慣れない御座敷の空気が今更堪えたのか、七呉はすっかり疲れ果てていた。虎尉守らを見送って、早々に床に就くべく寮の廊下を行こうとする七呉の背中に、不意に「七呉さん」と声がかかる。
無視するわけにもいかず振り返る。廊下に掲げられた燭台の明かりのもとで、伽耶の真摯な白い顔が浮かび上がっていた。
「いい勝負でしたわ。けど、わたくしだってこれから先負け続けるつもりは毛頭ございませんから」
「あ、はい……」
「鏡をお出しなさい」
「へ?」
「手鏡よ、さすがに持ってるでしょう」
伽耶がいう手鏡とは、修行を終えた拵方の女性に神社から贈られる円形の鏡のことである。霊力のある女性が力を籠めると自身の紋が浮かぶほか、妖魔降魔はこれに映されるのを嫌うため、いざというときの防具にもなるというものだった。
七呉も一応はありますけど、と懐から取り出す。ろくに磨いていないので少し曇った銅鏡だ。しかし伽耶は気にした風もなく、七呉の鏡の縁に、自身懐から取り出した銅鏡の縁を打ち合わせた。澄んだ音が響く。
「!」
さすがに、その意味に気づいた七呉が目を丸くする。
金打儀。武者同士が刀の鍔と刃を打ち鳴らすように、女同士は鏡を打ち合わせる。決して背かぬ誓いの証だ。
「わたくし、三ノ輪の伽耶はここに千代見の七呉の実力を見、義妹と認めたことを宣言します」
「あ、そっちが上なんだ……」
「文句ありまして?実際年下でしょうあなた」
「はいそうですないです」
無条件降伏の姿勢をとる七呉に対し、懐へ銅鏡をしまった伽耶がふと笑う。
そこで初めて、七呉は目の前の女性の目元が綻ぶのを見た。いつも厳しく自分を見つめていたあの瞳が、こんなにも優しく笑えるのだと、わずかに驚きながら。
「一番働きは譲りませんけど、困ったことがあったらいらっしゃい」
「……はーい」
思わぬ展開になったなと頬を掻きつつも、決して悪い気はしない。そんな風に思う七呉であった。
晩春の夜は更けて行く。藤の香りと共に、いま二つの蔓が一つ、絡み合いながら育ち始めていた。
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