十八、花に嵐
「霊犠怨怒が――――」
虎尉守の言葉はそれ以上続かなかった。否、続けなかったという方が正しいだろう。
三岐守の口から語られた霊犠怨怒の発生数と戦死者の因果関係、それを裏付けるように戦場跡で行われていた死体の運び出し、さらには襲い掛かってきた忍たち。そのどれもが、荒唐無稽に思われた霊犠怨怒の人為的発生説を強固にするものだったのだから。
「襲い掛かってきたのは十中八九、祢鼓谷の手の者だろう。この白水で州公の目を盗み、このような真似が出来る家は存在しないはず。そして言った通り今回の戦でも、発生した霊犠怨怒の数と前々回の戦の死者の数は合致しつつある」
「……その情報、どこから得た」
黙っていた鎮北守が口を開く。
「協力を仰いだ」
短く答えた三岐守の視線が彼らを通り過ぎ、その背後に向かう。
『!!』
思わず振り返る虎尉守と鎮北守のその視線の先では、苦い顔つきで視線を受け止める七呉と、身を竦ませる伽耶がいた。
「……伽耶、お前」
「っ……あ、わ、わたくし……」
「私が推して頼み込んだのだ。鬼能の嫡女からの要請を断るわけにはいくまいと、解った上でな」
よって彼女らを責めるのは筋違いだ、と三岐守が言葉を締めるが、天幕内には重苦しい沈黙が落ちる。
「霊犠怨怒が常の降魔妖魔とは違い、戦のため、名誉のため、人為的に作られた妖魔であるなら、私は、我らはこれの根を絶やさねばならない。力を貸してくれ。虎尉守、鎮北守」「何故、俺たちだ」
再び三岐守へ視線を戻した鎮北守が問う。
「貴公らは論功行賞に興味がないだろう。戦を楽しんでいるわけでも、名誉のためでもなく、ただその力を守るべきもののために揮っている。すくなくとも、今はな」
「知ったような口を」
「知っているさ。私はそういう生き方を選んだ人間だ」
「それも鬼能ご自慢の通力か?俺たちが勲功に興味がないとして、自分はどうなんだ。鬼能は六将中で最も朝廷、皇家に忠義が篤かったというのに、その通力を恐れた幡川らに北の地まで追いやられた意趣返しではないと言い切れるのか」
虎尉守の噛みつくような物言いに、三岐守は目を細めた。
「……そこまで懐の深い聖者になった覚えもない。だが、この話は別だ。私は鬼能の将としてではなく、一個人として朝廷に忠誠を誓っている。そして――――皇王様はこの霊犠怨怒発生の歪んだ因果を憂いておられる」
「!……」
「密命を下された方って……」
朝廷の最高権力者。三岐守が口にした、神州皇国における名目上の君主の名に伽耶は絶句した。
「後生だ。亀子がこうなった今、私に出来ることはもはや限られている。しかし霊犠怨怒という脅威を絶やせるかもしれんこのような好機は、今を逃せば最早巡ってこないだろう。霊犠怨怒は武者を好んで食らうが、それ以外を食らわないというわけではない。これを絶やせるのならば、足軽たちの命も救える。命を削り、呪毒を抜く拵方たちの負荷も減らせる。だから、どうか」
「……」
両肩が膝につかんばかりの勢いで深く頭を下げる三岐守を前に、虎尉守は無言で席を立った。顔を上げた三岐守の方を見ることもなく、彼の視線は天幕の入口へ向いていた。
「虎尉守ッ……!」
「……霊犠怨怒は討つ。その首魁がいるというなら、そいつも討つ。居所が知れたら報せろ」
それだけを言い残し、虎尉守は俯く七呉へ声をかけることなく天幕の入口へと踵を返した。その足音にはっと顔を上げた七呉は、僅かに安堵を見せる三岐守と、虎尉守の背を交互に見遣り、三岐守に頭を下げ虎尉守の後を追った。
間を置かず、鎮北守も立ち上がる。
「俺に飛鷲の後援なぞ期待するな」
「鎮北守」
「武者としてただ霊犠怨怒を狩る。果てに何があろうと、変わらん。的が決まったら呼べ」
踵を返した鎮北守は、自分を見つめる伽耶に一瞥を投げかけるが、身をすくませた彼女に何を言うでもなく天幕を後にする。
「道慈様……!」
後を追いかけて天幕を出ていく伽耶の足音も遠ざかり、静まり返った天幕内で、三岐守は深い息を吐いた。
その背中へ、か細い声がかかる。
「……べに、さ、ま」
「!亀子」
「……おふ、た、かた、は……」
「なんとか力は貸してくれそうだ」
だから安心しろ、と枕元に膝をついた三岐守へ、羽鶴は薄く開いた目元を綻ばせた。
「もう喋るな。よく休め……」
三岐守の手が羽鶴の目元に翳される。それを合図にしたかのように、羽鶴の呼吸もまた深くなり、静かなそれへと変わっていった。
三岐守の天幕を出た時、太陽は薄雲のむこうへ隠れ昼間とは思わぬ薄暗さが辺りを覆っていた。そんな空気を引き裂くように、足早に歩を進める虎尉守の後を七呉は小走りについていく。
虎尉守は自身の天幕の垂れ布を跳ね上げるように中へ入ると、昼食の支度のため中にいた小姓たちを睥睨した。虎尉守付きとなってそれなりの月日を経ている彼らは、その一睨みに含まれる殺気だけで身を硬くし、急ぎ支度だけを済ませて天幕を後にする。
そんな彼らと入れ違うように、七呉は虎尉守の天幕へと入った。
「……虎尉守さ」
「何故言わなかった」
七呉は言葉を詰まらせた。断ち切るような虎尉守の声は、これまで聞いたことはあっても自らに向けられるものではなかった。
「俺は聞いたな。気がかりなことがあるのかと」
二人きりの天幕で、虎尉守の静かな声が聞こえる。背を向けていた彼が、振り返る足音すらもはっきりと。
「お前は確かにこう言った。明日の出陣のことだと」
「……」
「鬼能の密命を帯びたなど、一言も……!」
虎尉守の表情には単純な怒りのみではない複雑な色が浮かんでいた。それを目の当たりにし、唇を噛む七呉へ虎尉守は一歩近づく。
「答えろ、七呉。何故――――何故、俺に嘘を吐いた」
「……そ、れは」
七呉の唇はそれ以上動かなかった。胸中に渦巻く思いはあれど、どれも言葉にしようとすると形を喪ってしまう。その中で強いてあげるなら、という一つがあったが、七呉が言いよどんでいる間に、その沈黙を許さなかった虎尉守が距離を詰めてその手首を掴み上げた。
「手を開け」
「っ!虎尉守様」
「開け、七呉」
手首に虎尉守の魂鋼が食い込む。その痛みを感じながらゆるく開かれた七呉の手は、次の瞬間には喰いつくように虎尉守の指が絡み開かされていた。
荒れ狂う虎尉守の霊脈と、委縮する七呉の霊脈は常のようには重ならない。だがその中でも、虎尉守にも読み取れる『声』があった。
虎尉守の口元が、ひどく歪む。
「…………心配?俺を、お前が?」
「虎尉――」
「お前の中ではまだ俺は、お前に負ぶわれていた虎篭丸に過ぎないと?」
「そんなことはッ……待って、何を」
ぐい、と引かれた腕、その胸元へぶつかる七呉の体を抱き上げた虎尉守は、そのまま天幕内を横切り寝床代わりへ敷かれた畳の上へ七呉の体を落とす。
「ッ――――」
手のひらが離れ、七呉にはもう虎尉守の『声』が聞こえない。そんな彼女の手首を掴み組み敷く虎尉守は、袴の裾を脚で割り、腿を膝で抑えて受けると、七呉の全身を押し開くように畳へ押し付けた。
「ならばお前のいない年月で、あの虎篭丸がどういう男になったのか、解らせてやろう。霊脈なぞ使わなくても、お前が思い知れるように」
逆光に沈む虎尉守の姿を、七呉は初めて、怖い、と感じた。
「……震えているな」
俺が怖いか、七呉。首筋に顔を埋めたまま、肌に込めるように問われても七呉は答えられない。こんな近くの声が、どこか遠くに感じている。答えても、相手には届かないかのような。
「それでもいい。お前の前の男がどういう生き物か、よくよく刻め」
「っぅ、ぁ……」
ぐい、と無造作に暴かれた襟元から首筋に吸い付かれたかと思うと噛みつかれ、声が漏れる。抵抗しようにも腕はすぐに払いのけられ、脚は虎尉守の脚によって封じられていた。それは月日と修練が虎尉守にもたらした圧倒的な力と質量だった。かなわない、かなうわけがないと、七呉を絶望させるには十分すぎるほどの。
それと同時に、七呉はこれまでどれだけ虎尉守が自分と接するときに繊細に接してきてくれていたのかを思い知る。
恐い。恐いが、ここまで恐ろしく荒ぶる人になるまで追い詰めてしまったのは誰だという思いが、袴紐を解かれて転がっていく印籠の音を目で追いかけながら胸に浮かんだ。
引き下ろされる袴と触れる外気に晒される脚でぶる、と反射的に震えがくる。今は畳へ投げ出している自分の腕に残る、魂鋼に引っ掻かれた赤い痕を見上げた七呉は、不意に、自身の脚を抱え上げ近づいた虎尉守の頭へとその手を伸ばした。
「!……っ七呉?」
その髪の元結を解いて、投げ捨てる。思いがけない行動に、虎尉守の動きが一瞬止まった。七呉はその間も構わずに上体を起こすと、流れ落ちてくる白銀と黒の髪を梳きあげるように手指を入れ――――その頭を抱き抱えた。
「……俺を容れるのか?七呉。憐れみか?」
冷たく嘲笑するような虎尉守の声にも、七呉は答えない。無言のままの七呉に虎尉守は唇をかみしめ、自分が掴み上げている七呉の太ももに噛みつく。
「ッ……」
「なんでもいい。もうお前はここから逃げられない。逃がすつもりもない……!」
喰い荒らすように自身の体中へ赤い痕を残していく虎尉守の頭を抱えたまま、七呉はどこか泣き出しそうなその声を確かに聞いた。
「お前は俺のものだ、七呉」
暗く、遠ざかった意識の中で七呉は幼いころの自分を見つけた。これは夢だと思いながら、彼女の抱いている暴れる仔虎を見下ろす。仔虎は最初暴れて子供の七呉の腕に引っ掻き傷をつけたものの、七呉が辛抱強くだいじょうぶ、と言い聞かせるうちに大人しくなり、やがてその傷を小さな舌で舐めだした。
『だいじょうぶ』
しばし子供の七呉の腕の中で大人しくしていた仔虎だったが、不意になにかの音を聞いたかのように顔を上げると、その腕の中を跳び出していく。何もない空間に着地し、振り返った時にはすでに成獣の大虎へと姿を変えていた。
身を低くして唸る大虎に、だめだ、と七呉は警告を飛ばすも子供の七呉は聞こえていないのか、無防備にそちらへ歩いていこうとする。
『だいじょうぶ』
警告が届かない。手を伸ばしてもすりぬける。やがて大虎の目の前までやってきた幼い七呉が手を伸ばそうとした途端、成獣となった大虎の爪が振りかざされた。赤い飛沫が、七呉の顔を、視界を汚す。茫然と立ちすくむ七呉の前に、同じ血を浴びた大虎、いや虎尉守が立っていた。
『――――お前の中ではまだ俺は、お前に負ぶわれていた虎篭丸に過ぎないと?』
冷たく笑う虎尉守の頬を伝うものが、その顔に飛び散った赤を薄めて滴らせる。
『……いいえ』
『虎尉守様を戦場に沈めることが恐ろしかった。霊犠怨怒のおぞましい真実などに近づいて、一層あなたをそこに沈めてしまうことが恐ろしかった』
『ただ、恐ろしかったのです。虎尉守様、あなたが血に染まっていくことが、何よりもご自身の血を浴びられることになるのではと思うと』
『……恐かった。あなたにつけられた傷は痛みます。許せないとも思います。でも、私もあなたを傷つけた。私の勝手な感情で』
『だから、お鎮めします。お鎮まりください。虎尉守様――――虎次郎様』
七呉は両手を伸ばして、虎尉守の両頬を伝う涙を拭った。虎尉守は静かに目を閉じる。七呉もまた自分の視界が暗く、頬の感触が遠くなっていくことを感じる。
最初に、衣擦れの音が聞こえた。次に薄明りの中、自分へ背を向けた虎尉守が気まずげに俯く小姓たちの手で身支度を整えている姿が目に入る。頬の下の畳の感触は、遅れてやってきた。
「ッ……」
畳に手をついて体を起こそうとした途端、節々へ走る痛みに思わず呻く。自分の体の上に重ねられていたのは、昨日の虎尉守が身に着けていた装束たちだった。衣擦れの音に気づいてか、虎尉守がわずかに顔をこちらへ向かせる。
「刻限だ。出陣の支度をしろ。七呉」
ただそれだけを告げる、その表情までは見えなかった。
それ以上はこちらへ目をやることもなく、天幕の外へと出ていく。そんな虎尉守に続いて、小姓たちもなるべく七呉の方を見ないように頭を下げては、水桶を置いて天幕を出ていった。
独り静まり返った天幕に残された七呉は、寝乱れた髪を無造作に掻き上げながら体を起こし、深いため息を吐いた。
枕頭を見遣れば、昨日は床に散らばったはずの印籠や組紐が、畳まれた自身の装束の上に置かれている。誰が、などとは考えるまでもないだろう。
二度目のため息が出た。
ともあれ、時間がない。かけられていたものを払い落とすと、七呉は乱れ髪を手櫛で適当に整え、組紐で結い締めた。装束を身に着け、印籠を袴紐に下げる。小姓たちが置いて行ってくれた水桶で顔を洗うと、そのまま袖で拭った。
既に朝とは言えない日の高さだったがまた霧が濃く、天幕を出ればすでに虎尉守の背中は見えなくなっていた。だが、ただでさえうまく歩けないなか、走って追いつく理由も今の七呉にはなかった。精々待たせればいいと思いながらの道中、ふと後ろから近づく足音に振り返れば、鎮北守と彼に付き従う伽耶がいた。
七呉が何も言わずに道を譲れば、二人もまた何も言わずに通り過ぎていく。
その時、七呉は伽耶の赤くなった目元に気づいたが、気まずげに顔を伏せる伽耶に対して言葉は出てこなかった。
二人の背中が霧の向こうに隠れて、ようやく、七呉もまた出陣場へと歩を進めるのだった。
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