十三、予兆
虎尉州は三岐、白水、八塩の州と境を接しており、峻険な山々に囲まれた土地である。その分耕作可能な平野部は少ないが、山岳信仰の修験者や旅人、拵方の修行に使われる社を多く擁して、人の往来は活発な地域でもあった。
さらに夏場は平野部が多い八塩、白水などと比べて山間部には涼しい風が渡る天然の避暑地でもあり、懐に余裕のある武家が寮を構えることもある。
とはいえ、夏は夏。野鍛冶の仕事は爆発的に伸びる雑草対策としての鎌研ぎや、打ち下ろし。水路の掃除に使われる鋤簾の修理など、例によって休みがない。七郎左と七呉もまた炉の前で岩塩を舐め、水を浴びるように飲みながら手を動かし続けていた。
そんな夏の盛りを過ぎ、野鍛冶にとって最も忙しい実りの秋が迫りつつある頃、その知らせはやって来た。
「――――戦が……」
「白水州は水野郷、虎尉寄りの北東の地で初秋に降魔妖魔発生の兆しあり、と陰陽寮から警報が出た。他家にも同じように通達が行っているはずだ」
戸口に立つ虎尉守の影が、立ち尽くす七呉の姿を呑んでいる。
煤に汚れた七呉の手が、鹿革の前掛けを握りしめた。
(三岐守様の言ってた通りになった……)
忙しさの最中で頭の隅に追いやられていた、あの晩春の密談が脳裏によみがえる。
もし、そのとき現れる降魔妖魔の類も、その数すらも決まっていたとしたら――――
「七呉」
「っは、はい」
七呉の思考が途切れた。慌てて顔を上げると、虎尉守がどこか思いつめたような表情でこちらを見下ろしている。
「……来てくれるな?」
「……そんな顔されずとも、お供いたします」
ご専属ですから、と続けた七呉の言葉に安堵の笑みを見せた虎尉守は、その視線を彼女の向こうへと向けた。そこには七呉と同じく、鹿革の前掛けをかけた七郎左が立っている。
「お忙しい時期に、人手を借りてしまい申し訳ありません」
「これはもうあなた様のご専属です。ご専属拵方のお勤めは刀身様を御支えすること……お気兼ねは無用に御座います。もとより手前一人でも務まる鍛冶場です」
七郎左の応対は常と同じく淡々としたものだった。感情を表に出すことなく、ただ静かに言い終えると、こちらへ振り返った七呉へ視線を向ける。
「七呉。早く支度しろ。拵方が刀身様をお待たせするな」
「っ……はい」
七呉はそんな七郎左に何かを言いかけるも、結局それを飲み込んで首からかけた手ぬぐいを抜いた。草履を脱いで板間に上がった七呉の、ぱたぱたという軽い足音が庵の中に転がる。そんな彼女の背中を見送った七郎左は、あらためて虎尉守へと向き直った。
「明日の朝にはお屋敷へお届けします」
「承知いたしました。では、本日はこれにて、御免」
頭を下げた虎尉守が戸口から姿を消すと、少し遅れて馬の嘶きと共に、馬蹄の音が遠ざかっていった。七郎左はしばしその音へ聞き入るように戸口に立っていたが、やがて緩く首を横に振ると踵を返し、残る仕事を片づけにかかった。
日の落ちる時刻は緩やかに、だが着実に早くなりつつある。まだ日の落ちた名残りが空を照らす頃、庵の囲炉裏ではよく磨かれた黒鉄の鍋が火にかけられ、立ちのぼる山椒と味噌の香りが煤けた土間の匂いを塗り替えていた。鍋の中身は猟師たちが代金代わりに持ち込んだ夏鹿の肉に、その出汁をよく含む切り干し大根と茄子、牛蒡にたっぷりの長葱である。
夕食の用意は大抵七呉が行っていたが、鹿肉のような特別なご馳走のときは七郎左が鍋に仕立てるのがほとんどだった。
しっかり食って精をつけていけ、と椀によそわれた鍋の中身と山盛りの雑穀飯に、常の七呉なら大喜びでそれらを掻きこんでいただろう。
だが、今夜の七呉はどこか落ち着かない心地で、その鍋の汁を啜り、ひたひたになった茄子を齧っていた。七郎左の作るものはすべてが七呉の好物だ。この鹿鍋だって美味いと感じる。
なのに、何故だろう。いつも通り黙々と食べる七郎左の姿が、やけに遠く感じたのは。
「祖父ちゃん。私がいなくてもちゃんと食べてよ」
「お前がいうな。ちゃんと出されたもんは食って帰ってこい」
「……うん」
毎回配給の米をケチって持って帰って来ている七呉は言い返せない。これも出立前の毎度のやりとりだが、それでも七呉の気分は落ち着かない。
寝間の枕元には、いつも通りの旅支度を終えた荷物が置いてある。今回は一人旅ではなく虎尉守の軍列に加わっての道中だが、何をどう変えればいいのか判らなかった。そのため足りなくなるよりはましだろうという気持ちで、結局常の道具一式を揃えてしまっていた。
いつもと同じようで、何かが決定的に違っている夜。出発前のご馳走も、板間の感触も、外から聞こえる虫の声だって、普段通りのはずなのに。
七呉だけだ。自分だけが、ただふわふわとどこか落ち着かない。だから口を閉じられない。
「ねえ祖父ちゃん」
「なんだ」
「虎尉守様が前に祖父ちゃんを呼んでた、カツヤマって、なに?うち、そんな名字あったの?」
「ない」
「でも……」
「捨てた。だからもうない」
くつくつと鍋の煮える音が聞こえる。七郎左は空になった七呉の椀を取り上げ、鍋の中身を再びよそう。差し出された椀の中には、七呉が好む煮込まれてくたくたになった葱や牛蒡、そして脂ののった鹿肉がどっさり入っていた。
「儂は千代見の七郎左。お前は千代見の七呉だ。それじゃ不満か」
「ないよ。不満なんて……」
即答する。椀を受け取って、その中身をまた黙々と食べる。
不満なんてあろうはずもない。千代見の七呉であるために、自身がどれだけ努力を重ねてきたか。
ただ、その時は虎尉守の七郎左に対する畏まった態度についての不思議や、七郎左自身の野鍛冶になるまでの過去を知らないことが、七呉の胸へと引っかかったのである。
七郎左は七呉以外に養子をたくさん育ててきた、と以前話してくれた――七呉が拵方の修行を積むための神社を仲介してくれたのもそんな元養子の商人である――し、野鍛冶は郷を超えた野鍛冶同士の横のつながりがある。それ以外でも鉄問屋や馬借との付き合いもあり、郷の中でも外をよく知る立場だ。だからその知識の深さに疑問を抱いたことはなかった。
ある意味で、自分は情報というものに対し無邪気だったのかもしれないと、七呉はその時初めて思った。
けれど、もう無邪気なだけの自分ではいられない。今夜を過ぎれば、七呉は虎尉守のご専属としてここを発つ。戦場に着けば、三岐守から密命を依頼されている身だ。
その差異が、今夜を境に変わってしまうだろう全てのことが、七呉の心を揺らしている。
不安、なのだろう。言ってしまえば。だから少しでも安心めいたものが欲しくて、抱える疑問を解き明かしたくて、こんなことを口走ってしまっているのだ。
どうあっても、今の七郎左は自分に過去を語ってくれないだろうことを、直感で理解していても。
「明日は早い。食ったら寝ろ。後始末はしなくていい」
「うん……」
やがて七呉は鍋と米を平らげると、言いつけ通りに七郎左の分も布団を敷いてから横になった。暗い中、手探りで触れた雑嚢の中から束にして結わえた組紐を引き出す。虎尉守が自分へと誂えてくれたという、あの組紐だ。
(……明日になれば、私は拵方の七呉だ)
組紐を懐にただ一つ、確かな事実を呟いて、七呉は静かに目を閉じた。
翌朝は霧が出ていた。まだ顔を出したばかりの日の光が薄絹のようなそれを透かす中、旅装束姿の七呉は七郎左に連れられて、月山家までの道のりを歩いていた。
七呉は切り立った低い崖と崖の合間にある道を行きながら、これが月山のお屋敷に続く道かと周囲を見渡していた。七郎左は虎篭丸だった頃の虎尉守を屋敷まで送り届けて以来だと言っていたが、自分はその時玄関から見送っただけなので、行き帰りの道すら知らない。
ふと、虎篭丸の馬の轡を取っていた七郎左の背中を思い出した。あの時は超えようのない壁のようであった祖父の背中は、その肩の向こうが見えるようになっていた。あの頃は黒いものが残っていた頭も、いまではすっかり白くなっている。
そして自身はいま、いつもの粗末な編紐ではなく、虎尉守から贈られた組紐で髪を結っている。
七呉の胸を例えようもない感情が満たした。このまま引き返せば、自分は祖父と一緒に野鍛冶の七呉のままでいられるのではないか、などという、一種の気の迷いめいたものが。
「覚えてるか。七呉」
不意に黙っていた七郎左が口を開く。自身の迷いを見透かされたかのようなその間に、七呉は返事を詰まらせた。
だが七郎左は気にした風もなく、その足取りと同じく淡々として続ける。
「お前、鍛冶場に女は入れんと言った儂に、儂の腕を食ってでも野鍛冶になってやると泣いて暴れてたこと」
「お、覚えてるけどさ」
なんで今その話、といわゆる恥の歴史の一つであるそれに、七呉は霧の中を歩いて冷めた体温が上がるのを感じる。当時の七呉の暴れぶりはいまより壮健な七郎左の顔に青あざを作るわ腕に宣言通りの噛み痕を残すわで、家どころか村中に知れ渡ってしまった恥も恥。大恥の記憶である。
子供だったんだよと口の中でごにょごにょ言い訳する七呉に構わず、七郎左は続ける。
「あまりにきかんもんだから儂が折れた。そうして修行をつけてやったら今度は鉄の打ち方が知りたいんだと喚いて飛び出していった」
「……その話まだ続く?」
「と思えば、道端に落ちてたと子供を担いで帰ってきた」
「!」
「今度はその子供が長じて御具足衆の一人になり、お前を連れていくという」
「……」
何かを噛みしめるような、思い出すような七郎左の声に七呉は口を出せなくなった。
しばし、二人の足音だけが霧中に流れる。
「七呉。ご専属というものは、刀身と拵はそう離れられるものじゃない。ものじゃあないが」
七郎左が立ち止まった。自然と、七呉も立ち止まる。
「嫌んなったら帰ってこい」
振り返った七郎左の、思いがけない言葉に七呉の目が見開かれた。
それはおおよそ、お勤めに厳しい祖父らしくない言葉であった。言葉では、あったが。
七呉は、にっと笑って見せた。胸中にあった迷いは、祖父の言葉で晴れていた。
「帰んない。千代見の七呉は銭の分だけ働けるって解らせて、貫払いさせるまでは」
「……そのがめつさは誰に似たんだかな」
「祖父ちゃんじゃないの」
「儂はお前ほどじゃない」
仕方のないものを見る目で、眉尻を下げて笑った七郎左が再び歩き出す。七呉もその後に続く。
薄らいだ霧の向こう、見えてきた月山屋敷の正門前では、戦装束姿の虎尉守と彼の率いる手勢たちが立ち並んでいた。こちらに気づいたのだろう虎尉守が、馬を傍らに体ごと振り返るのが見えた。その安堵したような微笑みも。
七郎左は立ち止まる。七呉はその隣へと並んだ。
「行ってこい」
「うん――そうだ。帰ってきたら、祖父ちゃんの昔の話聞かせて」
「……ああ」
「約束ね。じゃ、行ってきます!」
ぽん、と祖父の腕を軽く叩いて七呉は駆け出していく。まっすぐ虎尉守のところへたどり着けば、彼の両手が七呉の肩を掴んだ。そのまま抱き寄せかねない勢いに、思わず両手を彼の胸に突いた七呉は周りを見ろと言う代わりに睨み上げる。
「来ましたよ」
「ああ、待っていた」
そんなやり取りを経て振り返ると、七郎左が白い頭を下げているのが見えた。戦装束の衣擦れの音共に虎尉守もまた頭を下げ返す。
虎尉守が顔を上げる頃には七郎左は踵を返し、すでに霧の中へと歩み出していた。
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