居酒屋にて
短編小説『年下の彼氏――小学生編』の続編です。
いつからだろう、気づくと昔のことばかり考えている。それは、ちょっとした空き時間、通勤時間や、仕事の合間、ひどい時には会話の最中でさえ、彼――年下の元彼――のことをふと思い出しては胸が締め付けられるような思いがする。
けして彼と別れたのを後悔している訳ではない。別れるしかないのだと納得して、自分で選択したことだ。それなのに、私は彼のことが未だに忘れられない。
「美耶子ちゃんって、よく表情変わるなあ。面白いわー」
会社の飲み会の席で同期にそう言われて、ふと我に返った。
「ええっ、私変な顔してた?」
「うん、えらい難しい顔しとるなー、て見とったら、今度はめっさ笑顔になっとった。なに妄想してんの?」
同期の小野寺くんは面白そうに笑って言った。ま、マズイ。店内にクリスマスソングが流れているものだから、大学生のころに小学生たちとしたクリスマス会のことを思い出していた。
私は慌てて熱弁中の課長に向き直り、テカテカの禿げ頭を撫でて言い繕った。
「失礼な。妄想なんてしてません。私は真面目に話を聞いていますよー、ねぇ課長、聞いていますよー」
「……美耶子ちゃん実はかなり酔ってるよね?」
「えー? 何か言いましたー?」
酔っぱらった課長は饒舌で、何度も同じ話をするため、ついつい意識が遠退いてしまう。そういえば……、意識が飛んだとき、よく彼に「美耶子はただで飛行機に乗れていいな」と言われていたな。ただ、今乗るのは飛行機でなくてタイムマシンだけど。
小野寺くんが「うっそー、本当はー?」と面白がって詮索しようとするので、キッと睨んで牽制する。
そこへ、小野寺くんの隣に座る山田先輩が、彼の頭をメニュー表でポンと叩き、「小野寺こそ、ずっと美耶子ちゃんのこと見ていたのか?」とからかった。小野寺くんの顔面が真っ赤になる。
「違いますよ! ていうか、マジそういうんじゃないですから!」
「そういうのって、どういうののこと言ってるんだよ」
「ちょっ、先輩、いじめないで下さいよー」
小野寺くんは山田先輩に泣きついた。私は、とりあえずは詮索から解放されたから感謝すべきか、それとも勝手に小野寺くんの私的な感情をほのめかされて迷惑がるか、複雑な心境のままで成り行きを静かに見守った。ああ、できれば早いところ居心地の悪いこの場から立ち去りたい。そう思うとついついお酒のペースが速くなる。私はぐいとビールを飲み干した。
「――まあ、美耶子ちゃんが可愛いから、つい見とれてしまうのはわかるけど」
山田先輩は私に向かってウインクした。……ウインクする日本人、初めて生で見たんですけど!
月日が過ぎるのは早いもので、大学を卒業してこの会社に入社してから早五年目の冬が来た。入社したころ、私には年下の彼氏がいた。当時、彼はまだとても若くて年が離れすぎていたため、お互いに環境や、気持ちのズレが生じて別れることになった。それを後悔はしていない。あのまま付き合っていたら、お互いにもっと傷ついてしまうとわかっていたから。
「――美耶子ちゃんは、最近彼氏と上手くいってるの?」
突然の話題提起に、胸がドキンとした。入社したころはまだ彼と付き合っていたから、彼氏(詳細は内緒)はいます、と言っていた。だから、別れてから随分経つものの、まだ会社の人達は私に彼氏がいるものだと思っているようだ。
ポーカーフェイスを装い、ビールに視線を向けたままで極めて冷静な声を出す。
「山田さん、セクハラです、それ」
「……だってさ、小野寺」
見ると小野寺くんが人差し指を口元にやり、「シー!」と言って怒っている。どうやらセクハラは小野寺くんの差し金らしい。もう、きみ、バレバレだから。対応に困るから。そう、対応に……あ、そうか、ここで牽制すればいいのか。
「質問の答えですけど、彼氏とは、そりゃもうラッブラブですよ!」
満面の笑顔で答えた。言っていてちょっと空しい気がしたが、彼氏がいないなんて答えたら小野寺くんの今後の出方が怖いので、自衛のために嘘をついてしまった。嘘も方便っていうし、神様も今回だけは許してくれよう。
皆は二次会まで行くと言っていたけれど、私は一次会で帰ることにした。理由は、「彼氏と約束があるので」とまたまた嘘をついた。彼氏ってこういうときに便利だな。
夜道は危険だからと言われ、山田先輩が途中まで送ってくれることになった。小野寺くんも申し出てくれたのだが、「お前が一番危険なんだよ」と課長様が突っ込みを入れてくれたためこの度の人選になったのだ。
「えーと、駅まで歩こうか?」
「あ、はーい。すみませーん、ありがとうございまーす」
「いえいえ」
山田先輩は一つ年上だと聞いたから、二十八歳のはずだ。会社の中でも一際目立つ存在で、長身のハンサムさんである。今年他支社から移動してきてからというもの、彼のことを狙っている女子社員の数は日に日に増加していく一方だと聞く。
「ところで、美耶子ちゃんの彼氏って、どんな人?」
「えー、なんですかー、急に」
「いや、参考までに聞くだけだよ」
山田先輩はニコニコして尋ねる。参考って、何の参考にするんだ? 酔った頭で考えを巡らすが、ぼうっとして上手く考えられない。会話の間が気になり、私はなんとか間を繋ごうと懸命に喋った。
「えーと、えーと、私の彼氏はー、かっこいいっていうよりは可愛い系ですかねー?」
「かわいい系ってことは、もしかして年下?」
「あ、そうですー。でも子供のくせに生意気っていうかー、しっかり者っていうかー」
「子供? 何歳なの?」
「えーと、今何歳だろ? 私が二十七だから、十八歳? わ、もうそんな年になったんだ……!」
ということは、彼は高校三年生になっていて、大学受験を控えているということか。月日が経つのは本当に早い。
ふと気付くと隣に並んでいたはずの山田先輩の姿がないため、後ろを振り返る。
「先輩?」
「――美耶子ちゃん、入社してからずっとその彼と付き合ってるんだよね? ていうことは、彼氏はそのころ、中学二年生くらいってことだろ、それって……」
山田先輩の声が一段と低くなる。子どもと付き合った私を非難している声だ、と瞬時に察した。サーっと酔いが冷めてきた。どうして、私は話してしまったのだろう。今まで、誰にも話したことがなかったのに――。
本当は彼、誠人と別れたくなかった。本当は、別れてからもずっと彼のことを想っている。ずっと彼のことが忘れられないでいる。私は、彼の側で一緒に年を重ねていきたかった。それでも別れたのは、こんな風に、少年をたぶらかしたと非難を浴びるのが怖かったからだ。それなのに、今になって自分からバラしてしまうなんて。
「付き合っていたって言っても、キスもしませんでした。それに……」
そう、私達はキスもできなかった。中学生になって、彼が求めてきたとき、私は倫理感やら社会通念やらを振りかざして必死に拒んだ。私は怖かったのだ、社会に批判されるのが。だから教師の夢も諦めた。子供と恋愛するような者に、教師になる資格はないと思ったから。
「――それに、今はもう別れている?」
山田先輩の問いに私は頷いた。
気づくと、先輩はあと一歩の近距離に来ていた。勇気を振り絞って顔を上げてみると、いつものようにニコニコと笑う先輩がいた。
「なんだ、それならなにも問題はない」
そう言うと、先輩は「もうちょっと付き合わない?」と私の手を引っ張った。
二人で入ったショット・バーで、山田先輩は、私がフリーだと知ると小野寺くんが喜ぶので暫く黙っていること、と私に注意した。勿論、願ってもいないことだ。
「俺たちだけの秘密、だね」
先輩にそう囁かれてウインクされると、緊張していた口元が緩んだ。今まで誰にも話してこなかったけれど、この人になら話せてよかったのかもしれない。
ショット・バーを出て、駅まで先輩に送ってもらった。少し時間は遅くなったけれど、先輩と話せてよかった。話すと、気持ちが随分軽くなった。私は正直に、先輩にその気持ちを伝え、ありがとうございました、と頭を下げた。
「美耶子ちゃん」
先輩はやはりニコニコして私の頭を撫でて、「もうそろそろ、前に進むべきだよ」とありがたいお言葉を下さった。
私はただただ頭を下げて、先輩と別れた。その夜はお酒を飲みすぎたから、すごくトイレに行きたくなって駅のトイレに入った。そして、その後、あまり記憶がないが、駅のホームで私を待ち構えていた人物がいたはずだ……。
夢でなければ、それは約五年ぶりに会った元彼、誠人であったはずだ。でも、あんな遅い時間に高校生が出歩くはずがないから、もしかしたらそれは本当に夢だったのかもしれない。