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第9話 貞操の危機

「ひぃっ!?触らないで!離れてください!」


 ぶったまげた俺は、必死に彼女たちの手を振り払い、後ずさりをした。

 パニックだ。完全にキャパシティを超えている。


「お願いです、何かの間違いです!ど、どうかしてます!」


 俺は部屋の隅まで追いやられながら、必死に懇願した。

 だが、信者たちは引き下がらない。むしろ、俺のそのうろたえる姿を見て、母性本能をくすぐられたように慈愛の笑みを浮かべている。


「うふふ……そうですよね。初めては緊張しますよね」


 淡い紫のランジェリーに身を包んだ妙子さんが、まるで怯える子供をあやすような、極めて優しい声で言った。

 彼女は腰を左右に振ってレースをはためかせながら、ゆっくりと俺に近づいてくる。その異様な光景に、俺は半泣きになりながら叫んだ。


「いや、そういう事じゃなくて!!」

「ご安心ください、桃源導師様」


 妙子さんは俺の抗議を完全にスルーし、部屋の隅に置かれていた大きな段ボール箱を引き寄せた。

 そして、その箱の蓋をバカッと開けて、中身を俺に見せつけてきた。


「ゴムはロット買いしてございます」


 そこには、ドラッグストアの棚を丸ごと買い占めたかのような、数千個単位のコンドームがぎっしりと詰まっていた。


「ひぃぃぃぃっ!?」


 俺は悲鳴を上げた。

 ロット買い!?これを使った活動!?脱げ!?


 アレしかないじゃん!!


 常軌を逸した物量を見せつけられ、俺の中で何かがプツンと切れた。


「だから、誤解です!勘違いです!一旦ストップ!!」

「あらあら、導師様ったら、お顔が真っ赤」

「恥ずかしがらなくてもよろしいのですよ。さあ、マットへ……」


 迫り来る下着姿の女たち。


 このままでは、貞操が奪われる!俺の平穏な高校生活が、謎の宗教の地下室で終わってしまう!


「やめろぉぉぉっ!!」


 俺は火事場の馬鹿力を発揮し、囲い込もうとする信者たちの隙間を強引にすり抜けた。

 そして、全速力で走って地下室の扉へと向かった。

 ガチャン!と鍵を開け、重い防音扉をこじ開ける。


「ああっ、導師様!?恥ずかしがらずに……!」


 背後から聞こえる制止の声を無視し、俺は薄暗い階段を四つん這いになりながら駆け上がった。

 一刻も早く、この狂った地下空間から抜け出さなければならない。

 だが、階段を上りきった先で、最大のピンチが訪れた。


「開かないっ!?」


 一階へ繋がる隠しドア――分厚い本棚の裏側で、俺は立ち往生してしまった。

 内側からの開け方が分からないのだ!取っ手も見当たらず、いくら壁を押し込んでもビクともしない。


「うそだろ!?これ絶対アウトなやつだ!誰か開けてくれ!!」


 俺は半狂乱になりながら、本棚の裏側をバンバンと力任せに叩きまくった。

 下からは、「導師様ぁ〜、どうかお戻りくださいぃ〜」という、ホラー映画顔負けの猫撫で声が近づいてくる。

 終わった。俺の貞操はここで散るんだ。


 ――カチッ。


 デタラメに壁を弄っていた手が、偶然にも小さな隠しスイッチに触れた。

 ガゴゴゴ……と本棚がスライドし、一階の居間の光が差し込んできた。


「開いたっ!」


 俺は転がるようにして一階へと逃げ出し、本棚の隙間から這い出た。

 そのまま全速力で居間を抜け、玄関ホールまで走り、床にへたり込んだ。


「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」


 心臓が早鐘のように打ち鳴っている。全身から冷や汗が吹き出していた。

 俺は膝を抱え、一階の冷たいフローリングの上で頭を抱えた。

 意味が分からない。マジで意味が分からない。


 ただのご近所サークルだと思っていたら、とんでもないカルト集団だった。しかも、そのベクトルが完全に狂っている。


(オヤジ……てめえ、とんでもないもんを俺に押し付けやがったな……!)


 怒りと絶望で、目の前が真っ暗になった。


 俺のささやかな願いだった『平穏な日常』は、帰国後わずか数日にして、完全に木っ端微塵に粉砕されてしまったのだ。


 +++


 しばらく頭を抱えてうずくまっていると、廊下の奥から足音が聞こえてきた。


 顔を上げると、信者たちも服を着て、一階に戻って来るのが見えた。

 どうやら、俺があまりにも本気で逃げ出したため、ひとまず追撃を諦めてくれたらしい。


「桃源導師様。申し訳ありません、私たちが急ぎすぎましたわね」


 妙子さんが、先ほどの下着姿が嘘のように、再び上品なブラウス姿で微笑みかけてきた。

 だが、俺の目にはもはや、彼女たちが人間の皮を被った化け物にしか見えなかった。


「……帰ってくれ。お願いだから、帰ってください」

「本日はお日柄も良く、絶好の『交和』の機会でしたのに。残念ですわ」

「いいから!帰れ!!」


 俺は立ち上がり、信者全員を玄関の方へと押し出すようにして、強制的に退去させた。

 彼女たちは「きゃっ、手荒な導師様も素敵」などとふざけたことを言いながら、ズルズルと後退していく。


「お待ちになって、導師様。一つだけお伝えしておきますわ」


 玄関の扉から押し出される直前、妙子さんが振り返り、妖しく目を細めた。


「教義の詳細は、禁書『桃源聖交録』をお読みくださいませ。あそこに、我々が桃源郷へ至るためのすべてが記されております」


「読まない!知らない!頼むから今日はもう帰って!!」


 俺は話が通じないと踏んで、完全にシャットアウトする構えを見せた。


「今日のとこは、はい。はい。どうか、今日のところはねっ!帰りましょう」


 俺は半ばヤケクソのように頷きながら、彼女たちを強引に外へ押し出した。


「では、また来週の日曜日に。ごきげんよう、桃源導師様」


 バタンッ!!

 俺は重厚な玄関の扉を力いっぱい閉め、すぐに内鍵を、それも二重にかけた。


「…………終わった」


 静寂が戻った玄関ホール。

 俺はその場でズルズルと崩れ落ち、冷たい三和土《たたき》の上に完全にへたり込んだ。


 休日にプランターで野菜を育てる穏やかな生活。

 目立たず平和に過ごす高校生活。


 それらの輝かしい未来図は、数千個のロット買いされたコンドームを目にしたことで、ブラックホールへと吸い込まれてしまった。


(『桃源聖交録』……)


 へたり込む俺の脳裏に、妙子さんが言い残した禁書の名前がリフレインしていた。


 この狂った教団の実態を知らなければ、防衛策も立てられない。俺は絶望の淵に沈みながらも、この家に隠されているであろうその禁書を、なんとしても見つけ出さなければならないと覚悟を決めるのだった。

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