第41話 バレンタイン
2月14日。
世間はバレンタインデーという甘いイベントに浮かれているが、NPO法人『ピーチ・ライフサポート』の本部である桃源会館は、かつてないほどのパニック状態に陥っていた。
「代表理事!生徒会で培ったリサーチ力とマネジメント能力を駆使し、完璧なカカオ配合のチョコレートを調達いたしましたわ!さあ、私の至誠……いえ、日頃の感謝をお受け取りください!」
「伍東くん!私はストレス社会で戦うあなたの魂を癒やすため、特製のリラックスハーブをブレンドしたチョコレートを作ってきたわ!」
一階の広間では、天王寺会長や伊佐美先生をはじめとする既存のメンバーたちが、俺の前に長蛇の列を作っていた。
さらに、NPOのクリーンな噂を聞きつけて全国から大挙して押し寄せた新規の女子たちまでもが、「いつもお話を聞いてくれるお礼です!」と次々に色とりどりの紙袋を差し出してくる。
「あ、ありがとうございます!でも皆さん、順番に、落ち着いて……っ!」
俺は山積みになっていくチョコレートの箱を前に、完全に処理能力の限界を迎えていた。
真っ当な組織になればなるほど、感謝の形(という名の供物)も雪だるま式に膨れ上がっていく。ありがたいことだが、このままでは俺の体がもたない。
「おいおい伍東、お前すげえな!NPOの代表になるとこんなにモテるのかよ!」
ボランティアとして手伝いに来ていた半田哲が、俺の窮状をニヤニヤと笑いながら眺めている。
「笑ってないで手伝ってくれ!相談者の誘導を……!」
「皆様、申し訳ありませんが、代表理事はこれより休憩に入られます」
絶体絶命のパニック状態の中、凛とした涼やかな声が広間に響き渡った。
四ノ宮沙蘭だった。
彼女は周囲の女子たちを完璧な笑顔で牽制すると、俺の腕をスッと掴んだ。
「午後のカウンセリングに向けて、代表理事は自己の精神と深く向き合い、モチベーションを回復させる必要がありますから。……さあ、伍東くん。こちらへ」
「あ、ああ……助かる」
沙蘭はブーブーと不満の声を上げる女子たちを鮮やかに宥めすかし、俺を二階の居住スペース(自室)へと連れ出してくれた。
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バタン、と二階の自室のドアが閉まる。
一階の喧騒が遠のき、部屋の中には静かで穏やかな空気が満ちていた。
「ふぅ……死ぬかと思った。ありがとう、沙蘭。助かったよ」
俺がベッドの端に腰を下ろして深く息を吐き出すと、沙蘭は少し恥ずかしそうに微笑みながら、俺の目の前に立った。
「お疲れ様です、伍東くん。……NPO法人になってから、毎日とても忙しそうですね」
「まあな。でも、変な宗教の教祖をやらされてた頃に比べれば、何倍もマシだよ。親父の干渉もなくなったし、堂々と表を歩ける真っ当な組織になれたんだから」
俺が笑って答えると、沙蘭は両手を後ろに回し、モジモジと指先を絡ませた。
学校での「高嶺の花」の顔でもなく、一階で見せていた「完璧な右腕」の顔でもない。そこにあるのは、好きな人を前にして緊張している、ただの年相応の女の子の顔だった。
「あの、伍東くん」
沙蘭は深呼吸を一つすると、後ろに隠していた両手をゆっくりと前に出した。
彼女の手には、可愛らしいピンク色のリボンが結ばれた、小さな箱が握られていた。
一階の女子たちが持ってきたような、義理や感謝、あるいは「供物」としての仰々しいものではない。手作りの温もりが伝わってくる、不器用で、いじらしいパッケージだ。
「沙蘭、それ……」
沙蘭は真っ直ぐに俺の目を見つめ、真顔で、しかし確かな熱を込めて堂々と宣言した。
「伍東くん。法人の形がNPOに変わっても、私の愛は変わりません」
その言葉は、静かな部屋に真っ直ぐに響いた。
「お母様に教わった『神事のための供物』の作り方ではなく……昨日、本屋さんでレシピ本を買って、がんばって作ってみました」
沙蘭の白い頬が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「あなたが私を、狂った教義の檻から連れ出してくれたから。だから私は、ただの『四ノ宮沙蘭』として、大好きな『伍東くん』に、これを受け取ってほしいんです」
俺の胸の奥が、熱く締め付けられた。
幼い頃から毒親に育てられ、異常なカルトの教義の中で生きてきた彼女。
出会った当初は「18歳の誕生日に処女を捧げる」と狂信的に迫ってきていたが、その根底にあったのは、ただ「好きな人と穏やかな時間を過ごしたい」という、普通の女の子なら誰もが持つ無意識の純粋な願いだった。
どんなに組織の形が変わろうとも、状況が変わろうとも。
彼女の俺に対する純粋な気持ちは、最初からずっと変わっていなかったのだ。
俺は彼女のその純粋な願いに触れ、この優しくて不器用な少女を、何があっても守り抜いてやりたいと改めて強く決意を固めた。
「ありがとう、沙蘭」
俺は立ち上がり、彼女の震える手から、その本命のチョコレートをそっと受け取った。
「すごく嬉しい。今までもらったどんなものより、一番嬉しいよ」
「本当、ですか……?」
「ああ。俺も、沙蘭に約束する」
俺は受け取ったチョコレートの箱を大切に机の上に置くと、沙蘭の細い肩を引き寄せ、その体を優しく抱きしめた。
彼女の体がビクッと跳ねたが、すぐに俺の背中に腕を回し、安心したように顔を埋めてきた。石鹸のような甘い香りが、胸いっぱいに広がる。
「教祖だからとか、代表理事だからとか、そういう役職の責任感なんかじゃない」
俺は彼女の耳元で、はっきりと告げた。
「俺は、ただの『伍東奏多』として、一人の男として、沙蘭のことをずっと大切にする。お前の普通の日常は、俺が絶対に守るよ」
「……っ、伍東くん……」
沙蘭の大きな瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは、教義による感涙などではない。恋する女の子としての、純度百パーセントの幸福の涙だった。
教祖と信者という歪んだ関係から始まった俺たちは、今この瞬間、すべての仮面を脱ぎ捨てた。
そして、一人の男と女としての確かな愛の約束を交わし、その絆を決定的なものにしたのだった。
窓の外では、まだ冷たい冬の風が吹いている。
だが、俺の腕の中にある確かな温もりは、春の訪れを予感させるように、ただ静かに、優しく俺の心を包み込んでいた。
「……伍東くん」
俺の腕の中で、沙蘭が涙声のまま、ふふっと小さく笑った。
「来月の3月5日は、いよいよ私の18歳の誕生日です」
「えっ……ああ、そうだな」
突然の誕生日の話題に、俺は少しドキッとしてしまった。
「法人の形が変わっても、私の愛は変わりませんから。……楽しみに、していてくださいね?」
沙蘭は上目遣いで、どこか小悪魔のような、それでいて最高に可愛らしい笑顔を俺に向けた。
(あれ……もしかして、18歳の誕生日の『アレ』、まだ諦めてない……?)
NPO法人としてクリーンになったというのに、彼女の中の「至誠を捧げる」という過激な愛情表現は、どうやら別のベクトルで進化を遂げようとしているらしい。
俺の平穏な日常への道のりは、まだまだ一筋縄ではいきそうにない。
だが、彼女となら、そのドタバタすらも愛おしく思える気がした。
俺は腕の中の彼女をもう一度強く抱きしめながら、来月に控えた『運命の誕生日』に向けて、静かに、そして少しだけ怯えながら覚悟を決めるのだった。




