第36話 大晦日のパニック
十二月下旬。
厳しい寒さの中にも、どこか清々しい冬晴れの朝。
桃源会館の重厚な門の前に、俺と沙蘭、そして数名の信者たちが集まっていた。
「せーのっ!」
掛け声とともに、門の横に長年掲げられていた木製の巨大な看板『桃源交霊会』が、ついに取り外された。
ドスッ、という重い音を立てて地面に置かれた不気味な看板。それが、俺のこれまでの苦労と絶望の象徴だった。
「導師様、新しい看板の準備ができております」
沙蘭が丁寧に布で包まれた新しい看板を運んできた。
俺はそれを受け取り、門の所定の位置へとしっかりとビスで固定していく。
「よし……完成だ」
俺が一歩下がって見上げると、そこにはアクリル製の爽やかなデザインで、『NPO法人ピーチ・ライフサポート』と印字された真新しい看板が、冬の朝日を浴びて輝いていた。
「おおーっ!」
信者たちから拍手が沸き起こる。
「これでようやく……怪しい教祖じゃなくて、真っ当なNPO法人の代表になれたんだな」
俺は白く息を吐き出しながら、胸の奥から湧き上がるような深い安堵を覚えた。
親父に押し付けられた「伝説のセックス教団」という最悪のスタートから数ヶ月。熱狂する信者たちに囲まれ、貞操の危機に怯え、税務署のガサ入れに肝を冷やした日々。
だが、それも今日で終わりだ。
宗教法人の看板を取り換え、真っ当なNPO法人へと活動拠点を移管した。これからは、ただのカウンセリングや若者の支援活動を行う健全な団体として、平和に活動していけばいい。
「お疲れ様です、伍東くん」
沙蘭が隣に立ち、新しい看板を見上げながらそっと俺の手に触れた。
「ああ。色々あったけど、沙蘭がいてくれたおかげだよ」
「ふふっ。法人の形がNPOに変わっても、私の伍東くんへの思いは変わりませんから」
彼女が嬉しそうに微笑む。その笑顔には、かつてのような狂信的な危うさはなく、ただの一人の女の子としての純粋な好意が溢れているように見えた。
「俺も同じ気持ちだよ。……これでおとなしく、普通の高校生として生活できる」
俺は彼女の手を握り返し、澄み切った冬空を仰いだ。
NPO法人化による健全化。それは俺にとって、波乱に満ちた日常からの完全なるゴールでもある平穏そのものだった。
+++
大晦日の夜。
看板を架け替えてから数週間が経ち、桃源会館には驚くほど穏やかな時間が流れていた。
一階の広間には、いつもの殺風景なパイプ机の代わりに大きなこたつが運び込まれ、テレビからは年末特番の賑やかな音声が流れている。
集まっているのは、俺、四ノ宮沙蘭、クラスメイトの半田哲、そして生徒会長の天王寺雅の四人だ。高校三年生の同級生メンバーでの、ささやかな年越しパーティである。
「いやー、伍東の家で年越しそば食えるなんて最高だな!」
半田がみかんを剥きながら、呑気に笑う。彼は相変わらず、ここが元ヤバい宗教の施設だったことなど微塵も知らない。
「まあ、たまにはこういうのもいいだろ」
俺が温かいお茶をすすると、隣に座る沙蘭が嬉しそうに微笑んだ。
「はい。伍東くんと、こうして皆さんで年を越せるなんて……私、夢みたいです」
「それにしても、いよいよ来月からは本格的に受験シーズンね」
天王寺会長が、そばの器を置きながら真面目な顔で切り出した。
「ええ。私たちは高校三年生ですから、それぞれの進路に向けて最後の追い込みですね」
沙蘭も静かに頷く。
こたつを囲みながら、俺たちはそれぞれの進路の話をして、試験がうまくいくように互いに励まし合った。
完璧主義の天王寺会長も、今はプレッシャーから解放された穏やかな表情で参考書の話をしている。半田は相変わらず「俺はとりあえず普通のキャンパスライフを謳歌するぜ!」と笑い、沙蘭も将来への希望に満ちた目をしている。
俺はこたつの中で、深く息を吐き出した。
これだ。俺がずっと望んでいたのは、こういう「普通の高校生」としての平和な時間だ。
怪しい儀式も、迫り来る大人の信者たちも、税務署の影もない。ただの同級生同士で、こたつを囲んで進路を語り合い、新年を迎える。宗教法人の看板を外し、NPO法人へと移管した作戦は大成功だったのだ。
やがて、テレビの画面が新年のカウントダウンの準備に入った。
『さあ、今年も残りわずかとなりました! みなさん、ご一緒に!』
「おっ、いよいよだな!」
半田が身を乗り出し、テレビの画面を見つめる。
「伍東くん、来年もよろしくお願いしますね」
沙蘭がそっと、こたつの中で俺の手に触れた。
「ああ、こちらこそ。来年はもっと平和で、いい年にしよう」
俺はおとなしく、静かに新年を祝おうとしていた。
『十! 九! 八!』
テレビからカウントダウンの声が響き渡る。
七、六、五――。
バンッ!!
その時、広間のふすまが勢いよく開け放たれた。
「さあ皆様!! ついにこの時がやって参りましたわ!!」
「えっ?」
冷たい風と共に現れたのは、沙蘭の母親である妙子をはじめとする、原理主義の大人の信者たちだった。
彼女たちはなぜか異様に頬を紅潮させ、荒い息を吐きながら、熱に浮かされたような瞳で俺を見つめている。
「お、お母様!? どうしてこんな時間に……」
沙蘭が驚いて立ち上がる。
『四! 三!』
テレビのカウントダウンが無情にも進む中、妙子さんは妖しい笑みを浮かべ、両手を天高く掲げた。
「年が明けるこの瞬間こそ! 現世の肉体という檻が弾け飛ぶ、最終段階『桃源郷の開顕』の時!!」
「はあ!?」
俺は耳を疑った。
原理主義の妙子たちは、大晦日の年越しの瞬間を、教義の最終段階である『桃源郷の開顕』だと狂信的に信じ込んでいるのだ。
「さあ! 新年と同時に、現世の檻である衣服を脱ぎ捨て、導師様にこの体を捧げましょう!!」
『二! 一! ゼロ! ハッピーニューイヤー!!』
「賀正ーーーん!!」
テレビからの祝砲と同時に、妙子たち大人の女性信者たちが、一斉にブラウスのボタンを引きちぎるような勢いで服を脱ぎだした。
「うおおおおっ!? なんだこれ! 大人の女の人がいきなり脱ぎだしたぞ!?」
半田が鼻血を出しそうな勢いで叫び、目を丸くする。
「お、お母様! やめてください、伍東くんが困っています!」
沙蘭が慌てて止めに入るが、トランス状態の妙子たちには全く届かない。
「さあ、導師様! 毎年恒例の行事ですわ! 私たちの至誠をお受け取りください!!」
「やめろぉぉぉっ!!」
俺はこたつから飛び出し、迫り来る下着姿の大人の女性たちを必死に手で押し返した。
せっかくの平和な年越しが、一瞬にして地獄の脱衣パニックへと変貌してしまった。
「ここはもうNPO法人だ!! 脱ぐな! 服を着ろ!!」
俺の悲鳴が桃源会館に虚しく響き渡る。
NPO法人になれば平穏な日常が訪れるという俺の甘い考えは、狂信的な原理主義者たちの「毎年恒例の行事」の前に、もろくも崩れ去った。
「導師様ぁ! 逃げないでくださいませ!」
「NPOになっても、私たちは導師様を愛しておりますわ!」
「だから来るな!! 半田、お前も見ないで向こう向いてろ!」
「伍東、お前マジでどんな生活してんだよ!!」
結局、俺の新年は、服を脱ごうとする信者たちを必死に抑え込んで逃げ回るという、かつてないほどのドタバタの状態で幕を開けることになった。
看板を架け替えても、彼女たちの信仰心(暴走)は止まらない。俺がおとなしく平穏な日常を手に入れるための道のりは、まだまだ果てしなく遠いようだった。




