第35話 新法人設立
十二月。
冬の足音が本格的に近づき、吐く息も白くなり始めた頃。
俺は、自室の机で法人の通帳と睨み合っていた。
先月の税務署によるガサ入れという絶体絶命の危機は、四ノ宮沙蘭の機転(というか狂信的な思い込み)によってなんとか乗り切ることができた。
だが、根本的な問題は何も解決していない。
このまま怪しげな「宗教法人」の代表を続けていれば、いずれ諸悪の根源である親父の気まぐれな介入を招く恐れがある。それに何より、かつて前教祖が逮捕された「伝説のセックス教団」というヤバい過去の噂を、今でも引きずり続けている。
「……このままじゃ、ダメだ」
俺は通帳をパタンと閉じた。
ここには、女性経営者や伊佐美先生たちが「お布施」として振り込んでくれた豊富な資金がある。これを元手に、宗教法人という怪しい枠組みを捨て、真っ当で健全な「NPO法人」を新たに設立するのだ。
そして、沙蘭や信者たちをそちらの法人に連れて行き、活動拠点を完全に移管する。元の宗教法人は今まで通りの休眠状態にしてしまえばいい。
そうすれば、親父の干渉も防げるし、俺もヤバい新教祖ではなく、ただのNPO法人の代表としておとなしく高校を卒業できるはずだ。
俺はすぐさま一階の広間に下り、俺の大切な彼女である沙蘭にこの計画を打ち明けた。
「NPO法人、ですか?」
お茶を淹れる手を止め、沙蘭が小首を傾げる。
「ああ。宗教法人だと世間の目も厳しいし、親父の介入や過去の噂もある。だから、教団で得た収入を元手に、健全な若者の自立支援とか、ストレスケアを目的としたNPO法人を作るんだ」
俺が説明すると、沙蘭は少し考える素振りを見せた後、パァッと顔を輝かせた。
「素晴らしいお考えです、伍東くん! 現世の古い殻(宗教法人)を脱ぎ捨て、新たな器で救済の輪を広げるのですね!」
「いや、救済じゃなくて、もっと公的で健全な活動に……って、まあいいか。賛成してくれるなら助かる」
教義に結びつける癖は相変わらずだが、俺の提案に反対する様子はない。俺はホッと胸を撫で下ろし、NPO設立に向けた準備を本格的に進めることにした。
+++
数日後の週末。
桃源会館の一階広間には、NPO法人の設立申請書類を前に、三人の人物が顔を突き合わせていた。
俺と沙蘭、そしてもう一人は――。
「伍東代表。定款の目的欄ですが、所轄庁の認証をスムーズに通すためにも、もう少し事業内容を明確にする必要があります」
タイトなダークスーツに身を包み、真剣な眼差しで書類をチェックしているのは、国税局のキレ者調査官、長谷川恵理子だった。
なぜ税務署の調査官がここにいるのか。
彼女は先月の調査で沙蘭の熱弁に完全に論破され、「私もその桃源郷で救済されたい」と涙ぐんで以来、休日のたびに私服……ではなく、なぜか仕事用のスーツ姿のまま桃源会館に入り浸る「信者予備軍」と化していたのだ。
彼女の税務や法律に関する圧倒的な専門知識は、NPO設立においてこの上なく頼もしい手助けとなっていた。
「長谷川さん、休みの日にわざわざすみません」
「いえ、これも私の魂の救済……いえ、健全な法人の設立を手助けするためのライフワークですから」
長谷川調査官は眼鏡の位置をクイッと直し、真顔で答えた。
「さて、新法人の名前ですが、『NPO法人ピーチ・ライフサポート』でよろしいですね?」
「はい、それでお願いします。……問題は、活動理念ですよね」
俺が腕を組むと、沙蘭がスッと手を挙げた。
「活動理念は、先日の調査で長谷川様にもご理解いただいた、あの言葉を軸にするべきかと存じますわ」
沙蘭はクリアファイルの裏に、スラスラと文字を書き出した。
『現代社会のストレスという檻から若者を解放し、偽りのない「至誠」をもって、心の安らぎ(桃源郷)へ導く』
俺はそれを見て、深く頷いた。
「いいじゃないか。絶体絶命のピンチを救ってくれた、あの真っ当な言い訳……いや、高度な心理療法のコンセプトそのままだ。ストレス社会で悩む人たちを支援するっていう、NPOらしい大真面目な理念だ」
「導師様がそう仰るなら、これが私たちの新しい教義……いえ、理念ですわ」
沙蘭が満足げに微笑む。
しかし、俺は気づいていなかった。俺にとっては「至誠=真面目なカウンセリングへの誠意」「桃源郷=心の安らぎ」という大真面目な意味のつもりだったが、今までに集まった信者にとっては、これが完全に都合の良い解釈になってしまっていたことに。
『至誠(処女)捧呈』と『桃源郷の開顕』。
禁書『桃源聖交録』に記された過激な旧教義のコアワードが、バッチリと組み込まれてしまっていたのだ。
「素晴らしい……!」
長谷川調査官が、書類を握りしめたまま感動に打ち震えていた。
「社会のストレスという檻から魂を解放し、至誠をもって桃源郷へ至る……。なんて高度な心理療法なのでしょう! これなら、審査も間違いなく通過します!」
「長谷川さんがそう言うなら、安心ですね」
俺は彼女たちの熱狂の本当の理由に気づかぬまま、長谷川調査官の大絶賛のもと、NPO法人の活動理念を正式に決定してしまった。
これでようやく、カルト教団の教祖から卒業できる。俺の心は、希望に満ち溢れていた。




