第30話 莫大なお布施
【白石莉乃視点】
十月。
秋の深まりを感じさせる冷たい風が、都内の高層ビル群を吹き抜けていく。
私、白石莉乃は、自身の税理士事務所のデスクで、山積みになった決算書類と睨み合っていた。
時計の針はすでに深夜を回っている。ブラックコーヒーで眠気を散らしながら、私は一つのファイルのページをめくった。
表紙には『宗教法人桃源交霊会』と印字されている。
「さてと。伍東社長の脱法法人の処理でもサクッと終わらせますか」
私は独りごちて、キーボードを叩く準備をした。
桃源交霊会。それは私のクライアントであり、一年中海外のリゾート地を遊び歩いている自由人・伍東仁社長が、「節税になるから」という極めて不純で適当な理由で買収した怪しげな宗教法人だ。
そして、その代表役員として無断で登記されたのが、彼の息子である高校生の伍東奏多くんである。
「あの真面目そうな高校生……今頃、寂しい一軒家で泣いてるんじゃないかしらね」
帰国初日に彼をあの不気味な洋館に放り込んだ日のことを思い出し、私は薄く笑った。
前教祖が詐欺事件で逮捕され、休眠状態となっていた法人だ。どうせ活動実態などなく、赤字のまま放置されているに違いない。私はこの宗教法人の九月決算の処理を終わらせるべく、ネットバンキングで法人口座の入出金履歴を開いた。
「どうせ残高なんて、社長が振り込んだ小口の生活費くらい……え?」
画面に表示された数字を見た瞬間、私の指がキーボードの上で完全に硬直した。
いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……じゅうまん……ひゃくまん。
桁が違う。いや、桁どころの話ではない。
画面には、休眠状態の宗教法人には絶対にあるはずのない、莫大な金額が並んでいたのだ。
「な、何これ……!?」
私は思わず身を乗り出し、ディスプレイに顔を近づけた。
入金履歴には、見知らぬ個人名や法人名がズラリと並んでいる。
『美容クリニック』『女性人材派遣会社』……。明らかに子供のお小遣いレベルではない。社会的地位のある大人の女性たちから、「コンサル料」や「お布施」という名目で、一回につき百万円単位の異常な額の寄付金が、次々と振り込まれているのだ。
「嘘でしょ……たった数ヶ月で、こんな額を荒稼ぎしたっていうの……?」
背筋にゾクッと冷たいものが走った。
あの大人しくて常識人ぶっていた高校生が、一体どんな手品を使ったというのか。いや、前教祖の残した怪しい洗脳システムを完全に掌握し、富裕層の女たちから金を巻き上げているとしか思えない。
「……恐ろしい子。父親以上に、悪党の才能があるんじゃないのかしら」
私は呆れを通り越して、奏多くんのその手腕に思わず舌を巻いた。
しかし、税理士として感心している場合ではない。この異常な収入増は、間違いなく厄介な火種になる。私は即座にスマートフォンを手に取り、国際電話のダイヤルを発信した。
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数回のコール音の後、電話の向こうから、ザザーッという波の音と、陽気なウクレレの音楽が聞こえてきた。
『おう、白石!こんな時間にどうした?こっちは今、最高のサンセットを見ながら美女とマルゲリータを飲んでるところだぜ!』
相変わらずの能天気な声。諸悪の根源である、伍東仁社長だ。
「社長、マルガリータの間違いでは?いや、そんなことはどうでもいいです。バカンスの邪魔をして申し訳ありません。ですが、緊急事態です。……桃源交霊会の九月決算の件でご報告が」
『あー?あの節税用のダミー法人か?適当に赤字で申告しといてくれよ。奏多の奴も、おとなしく留守番してるだろ?』
「それが……おとなしく留守番どころの騒ぎではありません。法人口座の残高が、とんでもないことになっています」
私は手元のメモを見ながら、冷徹な声で口座の残高と、百万円単位で振り込まれている謎のお布施の実態を読み上げた。
『……は?お、おい、桁を間違えてないか!?』
「間違いありません。富裕層の女性たちから、次々と大金が振り込まれています。息子さん、立派に新教祖としてビジネスを成功させているようですよ」
私の報告を聞いて、電話の向こうの社長は数秒間、完全に沈黙した。
そして次の瞬間、鼓膜を破らんばかりの大爆笑が響き渡った。
『ハハハハハハッ!!すげえ!さすが俺の息子だ!あいつ、昔から変に聞き上手なところがあったからな!』
「笑い事じゃありませんよ。こんな異常な入金が続けば、税務署の目に留まるのは時間の問題です」
『いいじゃないか!息子の稼いだ金は俺の金だ!あのガキ、俺の期待以上の働きをしやがって!』
社長の言葉には、親としての責任感も、息子を心配する気持ちも微塵もなかった。
ただひたすらに、転がり込んできた大金への貪欲な歓喜だけだ。本当に、どこまでも身勝手で自己中心的な男である。
「……それで、この大金、どう処理しますか?宗教法人の非課税枠という建前はありますが、実態が伴わなければただの脱税です」
『決まってるだろ!その金を非課税枠でうまく処理して、こっちの新しいリゾート投資に回せ!』
社長は悪びれる様子もなく、とんでもない無茶振りを口にした。
「正気ですか?お布施や寄付金であっても、それが宗教本来の目的以外の『収益事業』だとみなされれば、普通に課税対象になります。百万円単位のコンサル料なんて名目、税務署が黙って見過ごすわけがありません」
『そこをなんとかするのが、お前みたいな優秀な税理士の仕事だろ?』
「……私に、法を犯せと?」
『人聞きの悪いことを言うな。法の抜け道を探せって言ってるんだ。上手く誤魔化して俺の投資口座に金を流せたら……お前にもたっぷりと、成功報酬を弾んでやるよ』
その言葉を聞いた瞬間、私の眼鏡の奥で、瞳がギラリと光った。
たっぷりとした成功報酬。
それは、ただの事務作業では決して手に入らない、桁違いのボーナスを意味している。
私は金に目がない。金のためなら、法律のスレスレを攻めることなど造作もないことだ。むしろ、そのために税理士という資格を取ったと言ってもいい。
「……宗教儀式への浄財、という名目に書き換えて、非課税の寄付金として処理します。当然、書類上の辻褄は完璧に合わせますが……もし税務署が踏み込んできたら、矢面に立つのは代表役員である奏多くんですよ?」
『あいつなら上手くやるさ!なんせ、大人の女を何人も騙して大金を引き出してる教祖様だからな!じゃあ、あとは頼んだぞ!』
プツン、と無責任に電話が切れる。
私はスマートフォンをデスクに置き、フフッ、と低く妖しい笑い声を漏らした。
「かわいそうな奏多くん。父親にはいいように使われ、私には帳簿の生贄にされるなんて」
だが、これも彼が代表役員を引き受けた宿命だ。
私は自身の多額の成功報酬を皮算用しながら、あの真面目な高校生が税務署の調査官に震え上がる姿を想像し、再びキーボードに向かって軽快に偽装の帳簿を叩き始めた。




